2 松沢敏行(まつざわびんこう) 川柳碑「とっときの」
▶場所 入口寄りの大池東側の渡り橋と四阿(あずまや)近くの斜面下
▶作者 松沢敏行 1923(大正12)~1995(平成7) 東京(現・荒川区)生まれ 本名博
不明~1995(平成7) 市川市八幡在住
▶作品 川柳碑「とっときの唄めずらしく母が酔い」
▶制作年 1996(平成8)年4月建立
略歴は『市川の文学詩歌編』2011(平成23)市川市文学プラザを参照。
▶出典 『川柳句集 たらちね 松沢敏行作品集』1982(昭和57)川柳新潮社 所収
▶経緯 前年死去した氏の顕彰のため建立
🔊碑裏
〈松沢敏行先生は、川柳の中興の祖、阪井久良岐翁の遺志を継がれた吉田機司師の直門/
として夙に頭角を現わし、同師の歿後、市川市に川柳新潮社を興し、続いて県内各吟/
社に呼び掛け千葉県川柳作家連盟を結成、その会長として三十余年の長きにわたり各/
地の川柳普及活動に尽力、かつて川柳不毛の地といわれた千葉県を全国屈指の川柳王/
国にまで指導育成された業績は恂に顕著であり普く県内外に知られるところでありま/
す。不幸にも病を得られ平成七年七月二十五日不帰の客となられました。(享年七/
十三才)ここに友人門下生一同企り、先生の偉業を長く後世に顕彰するため自費の/
句碑をここに建立するものであります。
平成八年四月吉日 松沢敏行先生句碑建立委員会
西村在我/若生茂/平岩午白/川鍋希芳/河野十九人〉
🔊『川柳句集 たらちね 松沢敏行作品集』
〈「母」(抄出)
一つだけ母七草の名を忘れ
旅に出る母こまごまと留守のこと
子に嫁を貰い出好きな母となり
ヘソの緒が母の小筥で干物じみ
梅干の種小半日母ふくみ
笹竹に文字がやさしい母の和歌
まだ母の耳に「りんごの歌」が生き
母はもう居ない階段別な音〉
〈四十余年にわたり茶道・花道の教授として、知名人や数多くの門下に接しているくらいだから、その勉強ぶりも当然ではあるにしても、寸暇を割いて、ある時は謡曲を習い、あるときはまた三味線の師を迎えるなど、道を求めてやまぬ意欲にはまったく敬服の一語につきる思いである。〉
〈母を亡くした一月二十二日からは、まことにあっという間の月日の流れであった。
お通夜から四十九日までを慌しく送った葬儀の連続は、私にゆっくり悲しみを噛みしめる時間の余裕を与えてはくれなかった。が、まもなく百ヶ日を迎えようとするこの頃、私はようやくにして母の位牌の前で静かな追憶にふけることが出来たのである。
灯明のゆらぎを見つめながら四十八年の母との過ぎし日を思い浮かべるとき、それはまるで鮮明なフィルムとなって懐しい光景を点滅してくれるのだった。しかし、想い出のアルバムの大半のシーンは、功成り名遂げた晩年のそれでなく、ネクタイのセールスまでして一家の生計を支えていた若い頃の母ばかりなのも不思議である。これは、当時小学生だった私の眼に、逞しい女性としての母が強く印象づけられていたせいであろう。
自分に厳しかった母。 勝気であったが優しかった母。 その母は、今、仏壇の中で安らかな眠りについて居る。
(昭和46 •4)〉
松沢氏は、いずれも市川市に暮らした川柳作家・阪井久良岐(さかいくらき)とその弟子の吉田機司(きじ)に連なる川柳作家である。その経歴は碑の裏面に刻まれている。
句の所収された『川柳句集 たらちね 松沢敏行作品集』には、「母」を詠んだ川柳が多く収められている。折りに触れて書かれた随筆からも、母への思慕が伝わってくる。
句は、茶道や花道や芸事に通じた母が珍しく酒に酔い、普段は唄うことのない「とっときの唄」を口ずさむ母を詠んでいる。「とっておき」が「とっとき」とあるところに軽みと母への親近感がにじむ。母想いの作者らしい顕彰碑といえる。
じゅん菜池緑地を直接詠んだ作品ではないが、松沢氏は能村登四郎氏や氏の子息で主宰を継承する能村研三氏とも親交があり、あるいは先に建立された登四郎氏の碑のあるこの場所が選定されたことも考えられる。
市川を代表する川柳作家の碑として存在している価値は大きい。