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小泉八雲の世界ー〈怪談〉が深く結びつけたヘルンさんと妻節子 根岸英之


小泉八雲の出会った女性とGhost(霊的なもの)
千葉県市川市の市川公民館で活動する雑学大学から、例会での講師を依頼されました。市川の民話でもよかったのですが、NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」で、作家の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)をモデルにしたドラマが放送されていることから、小泉八雲の〈怪談〉について、話をさせていただくことにしました。

 

2026年1月14日。約2時間のうち、前半はレジュメに沿って、ハーンと妻セツの略歴をたどった後、八雲が出会い大きな影響を受けた女性たちと、幼少期から見られた霊的体験を中心に話しました。
休憩後の後半は、ハーンの〈怪談〉作品から、「鳥取の布団の話」「水飴を買う女」「雪女」を取り上げ、朗読を通して作品世界に触れてもらいました。

 

市川に直接関連する内容ではありませんが、市川のサークルに向けて話したこと、また、市川の民話や〈市川学〉として地域研究を重ねるなかで得られた知見に拠る面もあることから、ここに話した概要を記録するものです。

 

日本に来たハーンは、セツと出会い、〈怪談〉が二人を深く結びつけ、今も愛読される珠玉の「怪談文学」が書き上げられました。二人が〈怪談〉を通して深い結びつきを持つことになるには、それぞれが出会うまでの体験が鍵となるようです。
そこで、講義は「1 小泉 八雲」「2 小泉 節子」「3 ハーンの出会った女性とGhost(霊的なもの)」「4 ハーンの作品世界」という流れで進めましたが、ここでは、「ハーンの出会った女性とGhost(霊的なもの)」を中心に見ていくことにします。ハーンとセツの必要な略歴は、そのなかで触れる形を採りたいと思います。

 

なお、ハーンは、生名をPatrick Lafcadio Hearn (パトリック・ラフカディオ・ハーン)とし、1896(明治29)年2月に日本国籍を得て帰化したときに「小泉八雲」と改名していることから、ハーンを主に用いることにします。
セツは、戸籍上は「セツ」で、「節子」は自身で好んで用いた名前のため、セツを主に使用することにします。

 

また、「鳥取の布団の話」は、別に投稿します。


1 幼少期に生き別れたギリシア正教の母ローザ
1850年6月27日 パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)は、アイルランド人で軍医の父チャールズ・ブッシュ・ハーンとギリシャ人の母ローザ・アントニウ・カシマチの次男(長男は夭逝)として、イギリス領ギリシャ・レフカダ島に生まれる
1852年8月 2歳 母子は乳母を伴い父の故郷アイルランド・ダブリンに移住(父は不在)
1854年 4歳 父が西インド赴任中浮気、母が精神を病みギリシャへ帰国 弟が生まれる ハーンは母と再会せず
1857年1月 父母離婚 
1882年12月12日、母59歳で死去

 

〈(母ローザは)オスマン支配の記憶を色濃く残すギリシャの正教世界。〉 
〈宗教は単なる信仰の違いではなく、身分や帰属を分ける境界でもあった。その中で、正教会という第三の信仰は、生活の感覚からして大きく隔たった存在だった。
正教会の礼拝は、蝋燭の光が反射するイコン(正教会で信仰の対象として崇敬される聖画像。生神女マリアや聖人が描かれる)に彩られた聖堂で、香が焚かれ、鮮やかな祭服をまとった司祭とともに執り行われる。
とりわけ大きく異なるのは、日常に根ざした宗教観だ。
現在でもギリシャ正教の世界では、人々は日本人がご先祖のために手を合わせるような感覚で死者のために祈り、家庭や聖堂に置かれたイコンの前で祈りを捧げる。また、地域にゆかりのある聖人は、日本の地元の神社に親しみを抱く感覚に近いかたちで崇敬され、日々の生活の中で名を呼ばれる存在だ。
現代でこそ、多様な文化があることは情報として誰もが当たり前に知っているが、19世紀のアイルランド・ダブリンの感覚では、異様な信仰・常識・価値観にしかみえない。〉
〈正教の世界では、死者は消え去るのではない。生者のそばにいて、祈りを受け取り、守護する存在として生き続ける。聖人たちは遠い天上の存在ではなく、日常の中で名を呼ばれ、頼られる身近な存在だ。
そして、イコンは、聖なる世界とこの世界を繋ぐ「窓」の役割を果たす。西洋絵画のように「こちら側から向こうを覗く」のではなく、向こう側からこちらを見ているように描かれ、そこから常にまなざしを向けていることを伝えている。これは、カトリックの制度的な聖性とも、近代プロテスタントが強めてきた合理的信仰観とも異なる、もっと直接的で情緒的な世界である。〉
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〈ハーン一族は国教会の信徒であり、アイルランド社会の多数派はカトリックだった。〉
〈なにより、彼女は英語をまったく話さなかった。一応は、ギリシャ語を理解するメイドを雇ったりしたものの、十分とはいえず、ローザが精神を病んだのも当然であった。〉
八雲が日本で出会ったのは、まさに失われたギリシャ正教の世界観と同じ構造を持つ世界だった。死者は消え去らず、盆には帰ってくる。祖先は常に見守り、祈りを受け取る。地蔵や稲荷は、ギリシャの聖人のように、日常の中で名を呼ばれ、頼られる存在だ。
そして、怪談。〉

 

🔊https://www.facebook.com/akiyuky/posts/pfbid02uYZayU21Qd2SSdfMsakELv5EoFMu7qqPozKxgZkBc4KtsnxJ347cYfrgDsUjDRe7l


2 妖精譚や怪談話を話してくれた乳母キャサリン

1854年 4歳 母がギリシャへ帰国 
1855年 5歳 厳格なカトリックの大叔母サラ・ブレナンに育てられる 

 

〈2歳で父の生家があるアイルランドのダブリンに移るが、気候と文化の違いに馴染めなかった母は、4歳のハーンを置いて生まれ故郷に帰ってしまう。その後、敬虔(けいけん)なカトリック教徒だった父方の大叔母の家に身を寄せ、育てられることになった。しかし、そこでの暮らしは彼にとっては苦しかったようだ。
乳母(うば)が語る妖精譚や怪談を聞くことを何よりも楽しみにしたという。八雲が海水浴好きなのは、このときケルト海で泳ぎを覚えたことに起因している。
アイルランドといえば、今なお多くの神話や伝承が残されていることで知られている。
妖精の国という人もいるくらい、アイルランド人にとって妖精は身近な存在であり、生活の中で話題にするのは普通のことだったようだ。そんな環境の中で乳母から語られる妖精譚は、幼くして母を失い、孤独だった彼の心に染み渡っていったのではないだろうか。
その後、大叔母の意向により13歳で全寮制の神学校に入学するが、厳格な宗教教育や神学校の僧侶たちの偽善的な態度に反発。このことがのちに多神教世界やブードゥー教、そして神道に対する共感につながっていったという。〉

 


3 母に代わって厳格なカトリックの教えで育てた大叔母サラ

1855年 5歳 厳格なカトリックの大叔母サラ・ブレナンに育てられる キリスト教に疑念を持つ
1863年 サラの意向でダラム市のセント・カスバート・カレッジ大学に学ぶ(厳格なカトリック教育)
1866年 16歳 遊具が当たり左目を失明 11月 父が病死
1867年 大叔母が破産 カレッジ中退

 

🔊池田雅之『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』平凡社 2025 
古くは多神教世界だったアイルランドとギリシャの血を引く出自 キリスト教への反発
→偏見を持たない異文化理解
〈ハーンは別の女性と再婚した父チャールズとも別れ、ダブリンにある大叔母サラ・ブレナンに預けられ、彼女の館で暮らすことになる。ブレナン夫人からは、ハーン少年は敬虔なカトリック教徒となって、彼女の後継者になることが期待されていた。大叔母ブレナンの許で過ごしたこの厳格な宗教的環境が、後年のカトリックへの反感を形成した一因と考えられる。ハーン、五歳(一八五五年)の時のことである。
とにかく一八五五年という年は、孤独で神経質な子ども時代のはじまりを告げる年であった。その頃を回想した「悪夢の感触」によると、ハーンは大叔母ブレナンの家の離れの部屋で乳母と離され、一人で寝るようにいいつけられていた。その部屋は、「坊やの部屋」と呼ばれていて、狭い陰鬱な部屋であったという。夜になると、部屋は外から錠をかけられ、ランプを消して一人で寝なければならなかった。ハーンはその部屋で毎夜のように幽霊を見、その幽霊たちによって一生忘れぬことができぬほど苦しめられるのである。〉
〈この「悪夢の感触」の一節は、天涯孤独となったハーンの赤裸々な幽霊体験の告白である。と同時に、人間を超えたもの、超自然的なものとの接触を記録した最初の文章といってよかろう。しかし、この霊的なものとの触れ合いを、孤独ゆえのハーンの妄想だときめつけることはできない。ハーンがお化けとも幽霊とも呼んでいるこのghostlyな存在は、彼が極度の心理不安に見舞われた際に見た一つの幻影だとしても、彼はたしかに毎夜こうしたお化けや幽霊を見、直接体を触られ続けていたのである。〉
〈この五歳時の暗い体験――畏怖すべき存在に触れ、いたぶられ、弄ばれたという体験――は、後年、ハーンに怪談を書かせる素地を培ったと推測してよかろう。〉

 

🔊ラフカディオ・ハーン「悪魔の感触」平井呈一訳
〈亡霊に対する人々の恐怖は、亡霊に触れられるのを恐れる気持ちなのだ、と。〉
〈触れられるのを恐れるこの気持ちは、それ自体、経験から生まれたものであろう。私が思うに、それはちょうど子供が闇を恐れるのと同じで、遺伝によって我々一人一人の中に蓄積された、誕生以前の経験によるのだ。〉
〈五歳くらいの時のことだが、私はある離れた部屋で、ひとりで寝るようにと申し渡された。〉
闇を恐れるのは一種の精神障害であるから、厳しい対応が必要だと判断されたのだ。けれども、それはかえって症状を悪化させる結果となった。それまで私は、子守に見守られて明るい部屋で眠りについていた。だから、一人きりで暗い部屋で休みように言われて、こわくて死ぬかと思った。〉
〈なぜ私が、あれほどひどくこがわったのだろうか。ひとつには、暗闇は恐ろしいものがうようよしているところだと、私がずっと感じていたためである。記憶をたどると、はるか昔から、私は忌まわしい夢に苦しめられていた。〉
〈こういうお化けが出るのだと話しても、そんな話をするんじゃない、お化けなどいないのだから、と言われるだけだった。〉
〈夢の始まりには必ず、空中に何か重いものが――ゆっくりと私を押さえつけ、動く力を徐々に麻痺させるものがあるのではないかという感覚があった。〉
〈階段を上ってこちらに近づいてくる。その足音が、私の耳に聞こえる。低い太鼓の音のような、あの足音――なぜ他の人たちには聞こえないのだろう、と私は不思議に思うのだった。お化けが来るまでには長い時間がかかる。ぞっとするような一歩ごとに、意地悪く足を止めるからである。やがて、閂(かんぬき)のかけてあったドアがゆっくりと、音もなく開き、それが入ってくる。声を出さずに何か言いながら、両手を伸ばし、私をぐいとつかむと暗い天井めがけて放り上げる。落ちてくるところをつかまえては、二度、三度と投げ上げるのだ。〉

4 大叔母の家で「顔なしお化け」となって現れたジェーン

1855~56年 5~6歳ころ 冬 サラの家に逗留するジェーンからキリスト教の信仰をめぐり狂信的な振る舞いを受ける
            翌秋 ジェーンの顔なしお化けとなって現れる 

 

🔊池田雅之『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』平凡社 2025 
〈彼の五、六歳頃の幽霊体験は〈顔なしお化け〉体験といえるもので、その体験をつづった「私の守護天使」という作品に詳しく描かれている。〉
〈大叔母サラ・ブレナンの家に逗留する一人の女性がいた。若くて背が高い、その痩身の女性は、ローマ・カトリックに改宗したばかりの熱心な信者であった。彼女は幼いハーンをたいそう可愛がってくれた。その女性は親戚ではなかったが、家のみんなからは『従姉妹(カズン)・ジェーン」と呼ばれていた。そして、ハーンも彼女に大変なついていた。
ところが、ある冬の朝、 ハーンはこのカズン・ジェーンから退屈はお説教を聞かされるはめになった。そのお説教にがまんできなくなったハーンは、思い切ってジェーンにこう質問をした。「どうして他人に気に入られるよりも、神様の思し召しにかなうようにすることの方が大事なのか、教えて欲しい。」するとジェーンは、幼いハーンを射るように見すえて、「坊や! 坊やが神様を知らないなんて、そんなことがあっていいのかしら?」と鋭く問い返した。「神様が、坊やや私をお創りになったことを知らないの?」
ジェーンはなおも暗い悲しみの表情を浮かべたまま、突如「それなら、坊やを地獄に落とし、永遠の業火で生きたまま焼いてあげよう⋯⋯」と叫びはじめたのである。それから、ジェーンは突然泣きはじめると、ふいと部屋を出ていってしまった。
幼いハーンは、このジェーンの狂信的ともいえる暴言と振る舞いを目の当たりにして取りかえしのつかないほどの不幸な気持ちに陥ってしまった。しかもこの体験は、ハーンにとって一生の心理的外傷(トラウマ)になるほどのものであった。その時から、彼はカズン・ジェーンを憎むようになり、いっそ死んでしまえばいいのにとさえ思うようになった。〉
〈ところが、のちに図らずも、このハーンの心ない願いは実現してしまうことになる。カズン・ジェーンは病に冒され、亡くなってしまったのである。〉
ハーンは、異常なほどのキリスト教嫌いになってしまうのである。
〈季節が巡り、やがてハーンは秋の夕暮れどきに彼女に再会する機会が訪れる⋯⋯。〉
〈ハーンが久しぶりにジェーンを家のロビーで認めると、「ジェーン姉さん!」と大声で呼びとめた。そして、ハーンは彼女の寝室に駆け込もうとした。ハーンは子どもらしくジェーンが微笑みながら振り返ってくれると期待して、顔を上げた。すると「⋯⋯そこに、ジェーンの顔はなかった。顔の代わりにあったのは、青ざめた、のっぺらぼうだけだった。私が驚いて眼を見張っているうちに、ジェーンの姿は消えてしまった」のである。そして、あまりの恐ろしさに、ハーンは叫び声をあげることさえもできなかった。〉

5 黒人の血を引き異界の語りができた最初の結婚相手マティ

1869年 19歳 イギリスから移民船でアメリカ・ニューヨークへ
       シンシナティで新聞社のジャーナリスト 文芸評論から事件報道まで
1874年 24歳 下宿の料理人マティ・フォリー(親はアイルランド系と奴隷出身)と結婚 
       オハイオ州は異人種間の結婚は違法 出版社の転職を余儀なくされる
1877年 離婚 ニューローリンズに転居 
       さまざまな人種クレオール(異種混交的文化)やブードゥー教を取材執筆

 

 🔊譽田亜紀子「なぜ西洋人・八雲が日本に興味を持ち、そこに生きる人々の魂まで理解したいと思ったのか?「セツと暮らすことで恐らく…」『ばけばけ』で注目の松江市・小泉八雲記念館で触れるそのまなざし」『婦人公論』2025年10月03日

 https://fujinkoron.jp/articles/-/18926

〈そしてもうひとつ彼の人生に大きな影響を与えたのが、16歳での左目の失明である。

 さらに大叔母が破産し、17歳で学校を退学することになった八雲は、19歳の時に移民船に乗り、単身アメリカに渡る。そこで厳しい生活を余儀なくされたが、紆余曲折の末、24歳の時、オハイオ州シンシナティで事件記者として才能が開花し、名声が高まっていった。

そんな頃、彼は異界の語りができる女性と恋に落ち結婚。その関係も3年で終止符が打たれるのだが、彼女が語った社会の底辺の人々の暮らしや、奴隷たちの怨念(おんねん)がこもった幽霊譚は、彼の心に影響を与えたという。

このことをきっかけに、白人社会への違和感を強くし、一方で、さまざまな文化が混ざり合うことの豊かさを知り、偏見なく異文化を受け入れていくという、彼のスタイルが作られるようになる。〉

〈(小泉八雲記念館)同館学芸企画ディレクターの小泉祥子さんに話を聞くと、「西洋人と言っても八雲は背が小さく、左目も失明していて、自身にコンプレックスを抱いていました。また当時のアメリカにおいてアイルランド移民はマイノリティであり、八雲はアイルランド人であることを隠していたようです」

と、思いもよらない答えが返ってきた。〉


6 カリブ・マルティニークで伝説を語ってくれたお手伝いシリリア

1887年 カリブ海の島マルティニークに約二年間滞在し、現地の暮らしを記録

 

🔊小泉凡『セツと八雲』朝日新聞出版 2025  曾孫 小泉八雲記念館館長
〈ダブリンでは乳母のキャサリン、シンシナティでは最初の結婚相手マティ、マルティニークではお手伝いさんのシリリアと、その地その地で伝承を語る女性が八雲のそばにいたものでした。八雲はそうした女性にどこか母性を求めていたのでしょう。〉

 

🔊譽田亜紀子「なぜ西洋人・八雲が日本に興味を持ち、そこに生きる人々の魂まで理解したいと思ったのか?「セツと暮らすことで恐らく…」『ばけばけ』で注目の松江市・小泉八雲記念館で触れるそのまなざし」『婦人公論』2025年10月03日

 https://fujinkoron.jp/articles/-/18926

 〈強い白人男性優位主義とも取れる厳格なキリスト教世界よりも、移り住んだルイジアナ州ニューオーリンズやカリブ海のマルティニーク島の、おおらかで多様な文化や民間信仰を目の当たりにして、より異文化へと心が向いていったのかもしれない。〉

 

🔊ラフカディオ・ハーン「亡霊」平川祐弘訳、平川祐弘編『クレオール物語』講談社学術文庫 1991

〈このすばらしいマルティニークは、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が住む島でもある。ほとんどあらゆる農園にその農園固有の霊が住んでおり、お化けが住んでいる。そのある者は、最初誰かの空想でそのお化けが生れたその土地以外では全然知られていないが、別のある者は、民謡や民話の種となって、住民たち全員の想像世界のものとなっている。どの岬や頂にも、海岸ぞいのどの村や谷間にも、その土地特有の民間伝承があり、口碑(こうひ)がある。〉 


7 日本の怪談で深く結びついた妻セツ

【ハーン】
1884年12月 ニューローリンズで万国博覧会開催 翌年農商務省官僚の服部一三より日本文化を詳しく案内
1889年頃 『古事記』英訳版を読み大いに感銘
1890(明治23)年 世界一周旅行をしたジャーナリスト エリザベス・ビスランドから日本の美しさを聞き、日本行きを決意 
 3月18日 出版社の通信員としてカナダ発 
 4月4日 横浜港着 
 6月 出版社契約破棄 横浜の在日英国人学校校長の世話になるが決別
 7月 40歳 服部一三・チェンバレンの斡旋で島根県尋常中学校と尋常師範学校の英語教師
 8月30日 松江着 
 9月 出雲大社に外国人として初めて昇殿
1891(明治24)年2月上旬 士族の娘・小泉セツが住み込み女中となる
 6月22日 松江藩士の空き家を借り所帯を持つ ハーン41歳 セツ23歳 
 11月 熊本の第五高等中学校の英語教師 
1894(明治27)年9月『知られぬ日本の面影』(初めての日本に関する著書)出版  
1896(明治29)年2月 日本に帰化「小泉八雲」に改名

1904(明治37)年4月2日 『怪談』(怪奇文学作品集)出版 

 9月26日 54歳 心臓発作で死去

 

【小泉セツ】戸籍上はセツ 自身で好んで「節子」を用いた
1868(慶応4年)2月節分 出雲松江藩の上流士族小泉家の二女に生まれる
       生後七日で親戚の稲垣家(家禄一〇〇石)の養女
       昔話・伝説・怪談話などを聞いて育つ
       フランス下士官ワレットからルーペをもらう
       11歳から生家の機織会社で織子として働く 
1886(明治19)年 18歳で前田為二を婿養子とする 夫は貧しさに一年足らずで大阪に
1887(明治20)年5月 実父死去 
1890(明治23)年1月 22歳で正式に離婚し小泉家に復籍 小泉家も困窮
1891(明治24)年 2月上旬 ハーンの住み込み女中となり結婚
1932(昭和7)年2月 死去

🔊鷹橋忍『小泉セツと夫・八雲』PHP研究所 2025(要約) 
〈養母トミ 家禄百石の原忠兵衛の娘 幼い頃、杵築(出雲市大社町)の高浜家の養女
高浜家は代々、出雲大社の上官(高級神官)、「釜の上官」と称され、祭礼や儀式に重要な役割 トミは、出雲神話をはじめ、多くの説話をセツに語り聴かせる
「魂について」『知られぬ日本の面影』、「阿弥陀寺の比丘尼」『心』など、トミ→セツ→ハーン〉

 

🔊小泉節子「幼少の頃の思い出」 『思ひ出の記』2024
〈(ワレット)其人から小さい私は特に見出されて進物を受け、私が西洋人に対して深い厚意を持つ因縁に成ったのは不思議であったと今も思われる。(略)私が若しもワレットから小サイ虫眼鏡をもらってゐ無かったら後年ラフカヂオヘルンと夫婦に成る事も或ハむづかしかったかも知れぬ。〉
                                       
🔊小泉節子『思ひ出の記』1927 『小泉八雲全集 別冊』八雲の友人三成重敬(みなりしげゆき)速記

〈私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません』と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。

話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変りまして眼が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。〉

 

🔊小泉一雄『父小泉八雲』小山書店 1950 長男
〈この本、みなあなたのおかげで生まれましたの本です。世界で一番良きママさん。〉

 

🔊小泉凡『セツと八雲』朝日新聞出版 2025 
〈幼い頃から胸に宿した物語が八雲と出会い、伏流水のように湧きだします。話の筋だけでなく、ストーリーに応じた声音や表情が、八雲の再話文学に欠かせない要素になったのです。
ほかにもたくさんの民話を語り聞かせることができました。雪女や狐、河童の息吹を感じさせる物語⋯⋯。最も近い八雲にその才を認められたこと。それは娘時代から苦労を重ねてきたセツにとって、自分の居場所を見つけた瞬間とも言えます。〉
〈11歳の頃から家のため、働きに働いてきました。回り道をしましたが、八雲と一緒になり、本来宿していた力を見いだされたように感じられたでしょう。

 

〈セツも幼少期から実母や養母に物語を聞かせてほしいとねだるような、物語好きな子ども時代を過ごしている。八雲と同じように口承文芸に触れて育っていて、こんなにピッタリな組み合わせがあるのかと思うわけだが、彼女の語りは八雲の創作の源泉になった。
八雲の一番の理解者であり、擁護者であり、愛すべき伴侶だったセツ。彼女と暮らすことで、八雲は自身の中にあったコンプレックスが癒(いや)され、幼少期に味わうことができなかった家族の愛というものを存分に知ったのではないだろうか。〉

8 ハーンの作品世界―「水飴を買う女」「雪女」

・〈旧日本〉(伝統的な日本)への共感的理想視と〈新日本〉(近代化・西洋化)への批判視  
・自己の内面の投影(母への思慕・コンプレックス・トラウマ)  
・「耳の文芸」   

 

🔊池田雅之『ラフカディオ・ハーンの日本』角川学芸出版 2009 
〈ハーンの再話ものは、日本の古典からその多くの語り直しの素材を得て、仏教的色彩を加味しているものの、その原作に吹き込まれる想像力は、きわめてギリシア的ないしケルト的な観念や思想に彩られているといえる。〉

 

●「水飴を買う女」『知られぬ日本の面影』「神々の国の首都」 
 松江市中原町 大雄寺
〈死んだ母が、土の中で生まれた我が子のために幽霊となって飴を買いに来る。これは単なる「怖い話」ではない。死者が愛する者のために戻ってくるという、八雲が生涯求め続けた世界観の物語だった。
八雲にとって怪談とは、「母の声」そのものだったのである。
そして、その怪談を語ったセツこそが、八雲にとって失われた「母」そのものだった
セツは学のある語り手でも、文学的な構成者でもない。だから、彼女の語る怪談には、西洋文学のようなオチも、明快な説明も、道徳的な教訓もない。ただ「そういうものです」で終わる。
これは、まさに母が子に語る寝物語の構造そのものだった。〉
〈失われた「母の声」を求めて
言葉が足りなくても、相手は待ってくれる。うまく説明できなくても、理解しようと耳を傾けてくれる。沈黙が訪れても、それは拒絶ではなく、次の言葉を探す時間として許される。誤解が生じても、それで関係が壊れることはない。
八雲が求めていたのは、完璧な翻訳者ではなかった。求めていたのは、失われた母の声。暗闇の中で、優しく物語を語ってくれる、あの声だった。そしてセツは、その声になったのであった。〉

 

●「雪女」『怪談』 
 序「西多摩郡調布村のある百姓が、土地につたわる伝説として、わたくしに語ってくれた話。」                       
〈『怪談』の中でも「雪女」は有名ですが、元々八雲が雪女の存在を知ったのは、松江時代でした。セツの養祖父が子どもの頃、大雪の日に雪女に遭遇したという話を聞いたのです。大寒の頃、来阪(くるさか)神社へお参りに行く者がよく見たなど、出雲地方の雪女伝承が記憶に残り、後にその他の話をヒントに八雲が創作した話だと考えられています。〉

 

🔊池田雅之『ラフカディオ・ハーンの日本』前出(要約)                                                          
〈ハーンの内なる〈永遠の女性像〉 破壊と生成の二面性 
実母でもあり妻節子でもある抽象化された〈女性像〉に昇華〉 

 

 

🔊大島廣志「「雪おんな」伝承論」『民話 伝承の現実』三弥井書店 2007
〈比較文学の分野からの「雪おんな」の成立過程探求は多彩に展開している。どれももっとものように思える。だが、それぞれの論に従えば、発端部分の雪女の茂作殺し、中間部の巳之吉の母親の存在、結末部の雪女の発言と消失の場面は、外国文学の影響かハーンの幼児体験に基づくことになり、それこそ日本の雪女は消失しまう。〉
〈「息を吹きかけて人を殺す」モチーフは、「雪おんな」以前にこの国に存在していたモチーフなのだから、木こりなど山仕事をする人々の間で伝えられてきたこのモチーフと、雪中に現われる雪女の話が合わさって「原雪女」が成立し、それを世間を渡り歩く調布の宗八が聞き、ハーンに提供したとも考えられるのである。〉

 

🔊ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)「鳥取の布団の話」セツの語り聞かせ風再話

 

🔊朗読「雪女」2023年12月(YouTube動画)

 https://youtu.be/lb8xsBkUdMY?si=JYbBSKcw5WdDaT99