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「原爆の図」の画家・丸木俊は戦前の市川で教員だった 根岸英之


画家・丸木俊(赤松俊子)と市川

今から80年前の1945(昭和20)年8月6日、広島に人類史上初の原子爆弾が落とされました。

原爆を描いた美術作品として、丸木位里(1901—1995)・丸木俊(1912-2000)夫妻の「原爆の図」(第1部・1950~第15部.・1982)が知られています。あるいは、丸木俊さんの絵本『ひろしまのピカ』(1980)なら見たことある人も多いかもしれません。

その丸木俊さん(赤松俊子さん)が、1933(昭和8)年4月から1937(昭和12)年3月まで市川尋常高等小学校(現・市川小学校)の代用教員を勤めていたことは、どれほどの人に知られているでしょうか。

🔊丸木俊 ウィキペディア(Wikipedia)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E6%9C%A8%E4%BF%8A

 

🔊丸木位里と丸木俊について 原爆の図 丸木美術館

 https://marukigallery.jp/about/maruki/

 

🔊『校歌は生きている』1987(昭和62)年 市川市教育委員会

 https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/syoseki.html#1

地域史に造詣の深かった吉井道郎さんが執筆した同書「市川小学校」には、次のように記されています。

 〈この時代(昭和初期ー引用者注)の市川尋常小学校の特筆すべきこととして「国語教育」がある。

 (略)その中心となったのが、その後、成蹊大学の教授となり、国語教育実践研究所の所長となった飛田多喜雄である。国語研究部員のなかには、昭和十五年七月に『女教師の記録』を著して豊田正子の『綴方教室』とならんで話題となった平野婦美(ママ。一般には平野婦美子)や、原爆の絵を中心とした活動で世界平和文化賞を受賞した丸木(旧姓)俊などがいて、研究授業や読書会、教材研究会と、実践研究に活発に取り組んだ。〉p19

 

しかし、並んで紹介された平野婦美子さん(1908-2001)は、市川市中央図書館の「市川ゆかりの人(市民文庫収録者)」でも取り上げられている一方、丸木俊さんが「市川ゆかりの人」ということは、把握されて来なかったといえます。

🔊市川ゆかりの人(市民文庫収録者)検索 市川市図書館課

 https://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1017.html#m07

 

わたしも『校歌は生きている』はよく参考図書として読んでいましたし、執筆した吉井道郎さんからも直接、平野婦美子さんとともに丸木俊さんの名前を伺っていたように思うのですが、しっかり認識したのはここ数年のことです。

丸木俊さんが、市川ゆかりの人であることをもっと多くの人に知ってもらいたいと、ここにまとめておきます。

🔊https://www.facebook.com/akiyuky/posts/pfbid0GzoTj7FQabzF5kTtaadtQ46wKRMQu5qvgsSYjAW8Y5mZ3PchTMXRyyNKt3akWEivl

 

画像 左 丸木位里・丸木俊『原爆の図』1983 丸木美術館

   右 丸木俊『ひろしまのピカ』1980 小峰書店


丸木俊子『生々流転』1958 実業之日本社

 丸木俊(旧姓赤松俊子・戸籍名は俊)さんは1912(明治45)年2月、北海道雨竜郡秩父別町(ちっぷべつちょう)の浄土真宗の寺の長女として生まれました。北海道庁立旭川高等女学校を卒業後、画家になる夢を抱いて東京・本郷の女子美術専門学校師範科西洋画部へ入学するため上京します。1933(昭和8)年3月、女子美術専門学校を卒業し、専門学校同級生の親類が千葉県庁に勤めていた縁を頼って、1933(昭和8)年4月から1937(昭和12)年3月までの4年間を市川尋常高等小学校の代用教員として勤めました。しかし、画家になる夢をあきらめきれず退職していきました。

丸木俊さんは、1941(昭和16)年7月、丸木位里さんと結婚しますが、1950年代まで「赤松俊子」を名乗っていました。1956(昭和31)年11月、位里さんの母が亡くなると「丸木」姓を名乗るようになり、1964(昭和39)年ころまでは「丸木俊子」、1965(昭和40)年以降「丸木俊」を名乗るようになりました。

 

丸木俊さんの市川時代を知るには、1958年に出版された自伝的随筆『生々流転』(丸木俊子 実業之日本社)が、もっとも参考になります。

市川市の図書館には所蔵がありませんが、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されており、閲覧することができます。

🔊丸木俊子『生々流転』1958(昭和33)年 実業之日本社

 https://dl.ndl.go.jp/pid/2486759/1/1

 

『生々流転』には、市川に就職してから弟が市川の家に一緒に暮らすことになった記述がありました。

p112

〈夜学に行っている弟は疲れてまだねむっています。(略)

 私が市川に就職してから一緒に住むことになったのです。〉

 

次いで、恋文をもらった相手と会うシーンがあるのですが、そこを読むと、〈家から国道を東京の方へ歩いて行くと江戸川がある〉ことが書かれており、市川小学校とそれほど遠くないところに住んでいたことが推定されます。

p114

〈やっぱり手紙を出してみようと、住所をみますと、同じ市川市の私の家のすぐそばではありませんか。(略)

 その人は、こんどは私の家へ来ました。私は弟にそのことを話しておりませんでしたので、弟のかえらぬうちに散歩にさそいました。

 市川の国道を東京の方へ歩いて行きますと江戸川があります。大きな橋がかかっていて水がうずを巻いて流れていきます。〉

 

 また、市川の代用教員になる前の専門学校時代の知り合いちよ子さんが、彼氏を連れて市川の家を訪ねるくだりがありますが、そこを読むと、大邸宅が売家になったところに間借りしていたことが分かります。

p125

〈その二人はよく、市川の私の間借りしている部屋へも遊びに来ました。

 木がみんな枯れて散ってしまって、私は誰かの大邸宅が売家になって、留守番に入った人が淋しいから小学校の先生にでも一間貸したい、という家に間借りをしていました。〉

 

教員退職後、当時、綴り方教育で全国的にも知られていた同僚の平野婦美子さんの仲介で、1937(昭和12)年4月から1938(昭和13)年3月までの1年間、モスクワへ家庭教師として赴きます。モスクワ帰国後の1938年、豊島区の「池袋モンパルナス」へ市川から引っ越していくのでした。

p152

 〈市川から東京へ引っ越して来たのでした。〉

 

この随筆から、俊さんは市川の代用教員をしていただけでなく、市川小学校の近くに間借り生活をしていたことが明らかになります。 

丸木俊子『生々流転』中表紙


原爆の図 丸木美術館 岡村幸宣学芸員からの回答

2023年8月、原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市)に市川時代の居住地について問い合わせしたところ、岡村幸宣(ゆきのり)学芸員から、次のような回答をいただきました。

 

🔊岡村幸宣学芸員メール根岸宛 2023年8月29日

〈市川時代の居住地についての資料は、お調べになった通り『生々流転』がもっとも詳しいです。ただ実際の住所はわかりません。

市川小学校には、1933年4月19日から1937年3月31日まで、1938年5月19日から同年8月31日までの二度にわたる代用教員としての勤務記録が残っています。〉

 

市川時代の住所は不明であること1938(昭和13)年5月19日から同年8月31日まで再び市川尋常小学校の代用教員をしていたことをご教示いただきました。

帰国後も代用教員に戻れるよう、何らかの配慮がなされていたのではないかとも想像されます。

帰国後に再度市川尋常小学校で代用教員をしていたことは、一般の文献ではほとんど言及がなく、岡村さん執筆の以下の本に記載が見られる程度です。

🔊岡村幸宣『伝記を読もう 丸木俊 「原爆の図」を描き世界に戦争を伝える』(2023 あかね書房)

 https://www.akaneshobo.co.jp/search/info.php?isbn=9784251046314

〈年表 一九三八 二十六歳 春に帰国し、八月末まで代用教員をつとめる〉

 

現在、ウィキペディア(Wikipedia)にも、「市川市で間借り生活を送る」「帰国後の春から8月まで市川尋常高等小学校の代用教員を務めた」との記述が見られますが、2023年当時はこの記載はなくその後に書き足されたものです。

 

岡村学芸員からはまた、『東京新聞』2022年11月16日号(夕刊)掲載の連載記事をご教示いただきました。

🔊岡村幸宣「生誕110年丸木俊  女絵かきの疾走 8 型破りな教員時代」『東京新聞』2022年11月16日号(夕刊)5面

〈今夏、山形県東根市で(略)国分一太郎資料室を案内していただいた。(略)

 国分の資料室には、千葉県の市川小学校で生活綴り方教育に取り組んだ平野婦美子との交流が紹介されていて、「この小学校には丸木俊(赤松俊)も勤めており、ともに国分を尊敬していた」という解説を見つけて嬉しくなった。(略)

 そんな俊を平野はかわいがり、俊も綴り方や図画の指導に熱心に取り組んだ。俊が育った北海道も生活綴り方や図画教育が盛んだったから、もともと親しみはあったのだろう。〉

 

また、原爆の図 丸木美術館には2021年12月、千葉県市川市在住の女性から1点の油彩画が寄贈されました。

🔊特別展示 生誕110年丸木俊展 人間を描く

 https://marukigallery.jp/5009/

2021年12月、千葉県市川市在住の女性から、1点の油彩画が寄贈されました。

女性の義理の母親は、かつて市川市立市川小学校の教員で、若き日の俊と同僚だったのです。

描かれた赤ん坊の誕生日と過去の展覧会出品記録から、この油彩画《母子の像》は、1936年1月の第13回白日会展出品作と思われます。〉

 

「原爆の図」とは対照的な生命の誕生を主題とする作品が、市川時代に描かれていた点に注目されます。近年になって、市川ゆかりの作品が寄贈されたことから、まだ市川時代の資料が出て来て新たな関わりが見えてくるかもしれません。 


丸木俊『女絵かきの誕生』1977 朝日新聞社

市川時代の俊さんはどのような教員だったのか、もう一冊の自伝的随筆『女絵かきの誕生』(丸木俊 1977 朝日新聞社)から見てみましょう。この本は『生々流転』と文章が重複していますが、『生々流転』に比べて市川時代の記述は減っています。

🔊丸木俊『女絵かきの誕生』1977 朝日新聞社

 https://publications.asahi.com/product/22495.html

 

朝早く学校に行くのは苦手でした。

p65

〈午前七時までに学校に到着して、職員室に集合して、それから朝礼をして、教室へ行く、という順序がなんとなく気にいらないのです。〉

 

そんな俊さんは、図画教育に力を発揮し主任となっていきます。

p69

〈全校の図画教育の責任者にさせられました。わたしはこのさい、日本の墨絵を子どもたちにもっとたくさん描かせてみようと思いつきました。〉

p70

〈千葉県全体の図画の大展覧会があるというので、全校生徒の作品を出品しました。市川小学校は県知事賞をもらいました。(略)けれどわたしは、自分の絵の勉強ができないのです。〉

 

そうして、教員と絵かきへの夢との間で葛藤を抱き、だんだんやせ、あるとき次のような夢を見るのでした。

p72

〈わたしは故郷の村へ帰ってきたのでした。(略)頭から黑い頭布をかぶって北をむいたおおぜいのものが、ゆらりゆらりと動いています。ああ、これは幽霊なのだ、と思いました。この人たちがここにいて、わたしが行こうとする道をさえぎっているのだと、わたしは考えるのです。(略)わたしは、わたしの故郷の、わたしの生れたあの森の中の寺の家へ行こうとしているのです。わたしは夢を見ていたのです。

 十年後に原爆の図を描くことになるのですが、第一部「幽霊」を仕あげて、ぞっとしました。絵はこのときの夢とそっくりの情景になっていたのでした。十年後のことを夢は教えてくれていたのでしょうか。〉

 

市川時代に悩んで見た夢が、「原爆の図」第一部「幽霊」にそっくりだというエピソードが、市川と「原爆の図」の距離をぐっと近くさせます。

 

p73

〈醒めた目に、青い夜あけの空が映りました。ああそうだったのか、というような安らかな気分が胸にあふれてきました。(略)

市川へ帰ってきたわたしは、着物を着てスケッチブックを取りだし、眠っている街をぬけ、江戸川べりを歩いて真間川へ出ました。桜の木に、紅い木の葉が二つ三つ残って、流れる水に映っています。スケッチをはじめました。〉

夢から醒めた俊さんは、市川の風景をスケッチし始め、絵かきの夢に向けて進もうとする決意が立ち現れます。幽霊の夢が、大きな転換点となったのではないでしょうか。 


平野婦美子『女教師の記録』1940 西村書店

平野婦美子さん(1908-2001)は、丸木俊さんの先輩教師に当たります。1926(大正15)年、千葉県女子師範学校を卒業し、長浦尋常小学校(現・袖ヶ浦市)の教員となりました。1930(昭和5)年、東京の官庁に勤めていた男性と結婚し、市川尋常高等小学校へ赴任します。

その著書『女教師の記録』(1940 西村書店)の「恵まれた同僚」の章に、丸木俊さんのことを記しています。

🔊平野婦美子『女教師の記録』1940(昭和15)年 西村書店

 https://dl.ndl.go.jp/pid/1151106/1/121

p223

 〈この友人達が共々に去り、私一人残ってゐた所へ、今度は、若い友達が沢山入つて来て、全部で女教員三十三名、男の先生よりその数も多くなつた。

 武藤朝子さん、(略)赤松さん、(略)小倉さん等とはち切れさうな方々が一度に入り、私は「をばちゃん、をばちゃん」と云はれる身になつた。(略)

 赤松さんは女子美術出の画家だつたが、非常にいい教育をして下さつた。すみ絵の指導法など、私はこの人から伝授して頂いた。後に私の教へ子油橋さんに附き添つて一ケ年モスコーに行き、帰京後は教壇に立たず、専ら絵の方ばかりに精進され、二科にも入選され、「今は南洋のパラオで絵を描いてゐます。一生懸命やつてゐます。」と二三日前ハガキを下さつたが。〉

 

二人が教員を勤めていた当時の市川尋常高等小学校は、児童数3000人、学級数53、職員数64人という、千葉県下でも野田、銚子に次ぐ大きな学校でした。教育研究も熱心で、研究授業や、他校からの授業参観も絶え間ありませんでした。

絵かきを志して、教員生活から離れた丸木俊さんですが、市川で子どもたちと図画教育に取り組んだ経験は、のちの画家としての糧となったに違いありません。 


1965年から1966年には松戸市に美術館を建てようと居を構える

丸木位里・俊夫妻は、1965(昭和40)年3月から1966(昭和41)年12月に丸木美術館が建つことになる埼玉県東松山市に転居するまで、松戸市八ケ崎に居を構えていました。それは、「原爆の図」を展示するための美術館を松戸市に建てようと考えたからでした。

🔊丸木位里と丸木俊について 原爆の図 丸木美術館

 https://marukigallery.jp/about/maruki/

〈1965年 3月、千葉県松戸市に転居

 1966年 12月、埼玉県東松山市に転居〉

 

🔊岡村幸宣『伝記を読もう 丸木俊 「原爆の図」を描き世界に戦争を伝える』(2023 あかね書房)

p101

 〈「お金はかけなくてもいいんだ。小さな小屋でもいい。原爆の図を、だれでも見たいと思ったときに、見られる場所ができればいい。」

 位里は、そのための土地をさがそう、と考えました。位里の友だちの岩崎巴人(はじん)という画家が、千葉県の松戸市にいいところがある、と教えてくれました。ふたりは松戸に引っ越しました。

 松戸では、家の近くに、縄文時代の村の遺跡が見つかりました。そこに団地をつくる計画があるというので、俊は調査の仲間に入って、遺跡をそのまま公園にして、残さなければいけない、とみんなで市役所にお願いしました。(略)

 しかし、けっきょく、団地の計画を止めることはできませんでした。それでも少しだけ計画は見なおされて、遺跡は小さな公園としてのこることになりました。俊たちは、みんなであつまって縄文まつりを開き、楽しくおどりをおどりました。

 残念なことに松戸では、美術館をつくるほど広い土地を買えそうもないことがわかりました。別の知りあいが、埼玉県の東松山市に広い土地がある、と教えてくれました。〉

 

🔊『松戸市文化財保存活用地域計画』2023(令和5)年  松戸市教育委員会

 https://www.city.matsudo.chiba.jp/kurashi/kyouiku_sports/culturesports/shingikai/sportssingikai.files/shiryo04-2-2.pdf

p46

〈また「原爆の図」で知られる丸木位里・俊夫妻も、1964(昭和39)年から二年ほど市内の八ケ崎に住んでいました。当時、付近では小金原団地造成に先行する貝の花遺跡の発掘調査が行われており、夫妻は、その調査現場をしばしば見学しています。住まいの近くで採集した縄文土器が、東松山市の「原爆の図丸木美術館」で大切に保管されているほか、発掘調査の様子を描いた「松戸市貝花塚発掘」と題する俊のデッサンも残されています〔1965 松戸市教育委員会所蔵〕。 〉

※丸木美術館の情報と年代が異なる

 

🔊「石碑めぐり98 貝の花貝塚跡記念碑」『UKIUKI』2016年8月5日号 第523号 ユースメディア

 https://ukiukiplus.com/webukiuki_backnumber/ukiuki/m0523/m0523.pdf

〈なぜ貝の花貝塚だけに、このような立派な記念碑が建てられたのか――二年間だけ松戸に居を構えた画家丸木夫妻の尽力がありました。

 宅地開発のために発掘調査終了後は、取り壊しが決まっていた貝の花貝塚。丸木夫妻は隣人の日本画家岩崎氏らと「松戸市貝の花古代遺跡保存会」を結成し、要望、陳情を繰り返しました。結局、運動はかなわなかったものの、開発計画の一部が変更され、公園を整備し、土偶を模した記念碑の建立という妥協案が成立します。元々、原爆の図の美術館建設を目的に松戸にやってきた夫妻ですが、用地の確保が難航、失意のうちに松戸を去ります。〉

 

🔊丸木位里(右)・俊夫妻=1965(昭和40)年7月21日、千葉県松戸市 KYODO NEWS IMAGELINK

 https://imagelink.kyodonews.jp/detail?id=24221717

 

市川市に隣接する松戸市に住まい、貝塚の保存運動に取り組んだことは興味深いです。もし、松戸で用地が確保できたら、松戸に美術館が建っていたことを想像すると、そこにも何かつながりを感じずにはいられません。

 

🔊 https://www.facebook.com/akiyuky/posts/pfbid0VYaUjgoXEXcbtkCFs7XmXNgafCdG7DEZZRHXgSQ4U3wUE89FsRV5Ed6dGG8LuPCKl


市川時代に見た幽霊の夢

このように、丸木俊さんは戦前の市川で代用教員として優れた図画教育に取り組んだものの、絵かきになる夢をかなえるため、4年間とモスクワ帰国後4か月を勤めて、市川から「池袋モンバルナス」へ転居していきました。

 

 市川時代に見た「幽霊の夢」は、のちに描かれる「原爆の図 第一部幽霊」と重なり、教員から絵かきへと人生の変換点ともなりました。

市川ゆかりの文化人として、丸木さんとほぼ同年代の作家・幸田文さん(1904ー1990)、日本画家の東山魁夷さん(1908ー1999)、脚本家・水木洋子さん(1910ー2003)らがいます。丸木俊さんも、これらの方と同じように市川ゆかりの人物であることを、多くの人に知ってもらえたらと思います。 

 

🔊原爆の図 原爆の図 丸木美術館

 https://marukigallery.jp/hiroshimapanels/

🔊オンラインでめぐる丸木美術館「原爆の図」ってなに?[54周年開館記念日特別企画] 原爆の図 丸木美術館

 https://www.youtube.com/live/VtzgxWvReGs?si=KGrHn4ZH9O66WZOw