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市川の戦争を語りつぐ~いちかわ平和のための戦争展 根岸英之 2025年7月28日更新


「いちかわ平和のための戦争展」トークリレー
市川市在住の口承文芸学研究者である米屋陽一氏が発起人となって開催された「いちかわ平和のための戦争展」のトークリレーで、根岸英之、市川民話の会(湯浅止子会長)がお話ししました。市川空襲体験者の平井宏治さんのトークもありました。
会場:全日警ホール(市川市八幡市民会館)2F 展示室
日時:2025年7月25日(金)16:30~17:00  
内容:根岸英之(市川民話の会会員・〈市川学〉コーディネーター)

    「市川の戦争を語りつぐ」

日時:2025年7月27日(日)15:00~15:30  
内容:市川民話の会(湯浅止子)「市川の戦争」
日時:2025年7月27日(日)16:00~16:30  
内容:平井宏治(ケアカフェいちかわ・市川空襲体験者)
   「子どもの目から見た戦争」

🔊トークリレー「市川にも戦争があった」根岸英之

🔊市川市行徳にも空襲があった~いちかわ平和のための戦争展

 

1 千葉県立国分高校平和ゼミナール『郷土(ふるさと)と戦争』1987年9月

 ア 1944(昭和19)年11月27日の市川市北部空襲

 イ 終戦と同時に大柏小学校の先生を辞めた父

2 市川民話の会調査編集『市川の伝承民話 第5集』1988 市川市教育委員会

3 松谷みよ子『現代民話考9 木霊・蛇ほか』1994 立風書房

4 『市川の伝承民話 第8集』2004 市川民話の会

市川民話の会(湯浅止子)「市川と戦争」

平井宏治(ケアカフェいちかわ・市川空襲体験者)「子どもの目から見た戦争」


1 千葉県立国分高校平和ゼミナール『郷土(ふるさと)と戦争』1987年9月
1987(昭和62)年度、千葉県立国分高校に「平和ゼミナール」(平和研究クラブ)が発足しました。顧問は社会科の中山文夫教諭、クラブ員は3年生の根岸英之1人。9月の文化祭(梨香祭)文化の部で、国分高校周辺の戦争について調べたことを展示発表しようと、1987年7月から9月にかけて、中山顧問と根岸クラブ員が地元の人の話を聞く調査を行いました。

そして、聞き取った内容を模造紙に書いて展示し、報告集を発行しました。

市川市中央図書館で閲覧できます。

 

千葉県立国分高校平和ゼミナール『郷土(ふるさと)と戦争 報告集〈第1集〉』

               1987年9月19・20日 千葉県立国分高校平和ゼミナール

 

「自分の足で調べた歴史の重み」クラブ員 根岸英之

 僕は、以前から郷土史に興味をもっていたので、今回、そうした”昔”としての戦争をより具体的なものとする為に、自分の住んでいる市川を歩いて、地元の人の話をお聞きすることにした。訪ね歩く中で、記録されていない史実も多く、今更のように郷土史探求の重要性を感じた次第である。

 活字から学ぶだけでなく、実際に自分の足で調べた歴史は非常に意義の深いものであり、単に歴史に対する理解を深めるばかりでなく、平和について考える上でも、大きな役割を持っているということを教えてくれた。

 

あとがき 根岸英之

 現在、児童文学者の松谷みよ子さんが、「現代の民話」をテーマに活動をしておられる。これは、「民話とは、人間がそこに在る限り日々生きて動いて生まれつつあるものだ」という考えに立ち行われているもので、現代を生きている人達の体験したこと――例えば、幽霊に出会った話とか狐にばかされた話とかを、民話としてとらえようというものである。そして、その「現代の民話」には、戦争体験も重要なジャンルとして取り上げられている。

 今回の調査も、実はそうした「現代の民話」としての戦争体験を探ってみたいと思って始めてみたのである。だが、それは、決して物語性を最優先しようとする考え方ではない。むしろ、教科書や概観書では分からない、庶民一人一人に血肉の通った思いが、浮かび上がってくる方法だと思う。

 この資料集も、そのことを頭に置いて作ったつもりである。一般的な通史に陥るのではなく、多少断片的なものとなろうとも、出来る限り、話し手の生(なま)の声が伝わってくれればいいと思って作成したのである。

 調査期間が短く、不十分な点は多々あると思う。しかし、それは今後の研究課題として、まずはこの資料集を味わって下さい。そして、願わくは、皆さん自身が話し手となり、聞き手となり、戦争のイメージを作り出して下さい。

 平和とは、そうした努力の上にこそ、存在するものだと思います。

 

構成

《報告集作成にあたって》/《前史》/《証言》

 『アカでもピンクでもないのに』/男達の出征/男達の無事を祈って/隣組/供出・配給・物資不足/梨の受難/銃後を守る/市川の空襲/少国民と学校と/終戦、そして・・・

あとがき/話者一覧 


ア 1944(昭和19)年11月27日の市川市北部空襲

市川市の空襲被害については、『市川市史』に「市川市空襲の被害の報告(抜粋)」が所収されており、それで概要を知ることができますが、当時は大柏村、行徳町、南行徳町は合併しておらず、市の北部、市の南部の実態は、未だ明らかにされていません。

1944(昭和19)年11月27日の空襲は、上記の報告にも記載があり、国分高校のある稲越から東に当たる曽谷、下貝塚辺りが被害に遭いました。稲越、曽谷、下貝塚は市川市でしたので、被害状況が記録されていますが、聞き取り調査では、報告以上の爆弾が落とされたことが確認できました。また、合併以前の大柏村の大野町にも爆弾が落ちたことが判りました。

トークリレーでは、この空襲でただ一人亡くなった下貝塚の松丸□□さんのことをお話ししました。下貝塚は生まれ育った町です。

 

市川の空襲 

 1944(昭和19)年7月に、マリアナ諸島がアメリカの手に渡ると、そこを基地とするB29の本土空襲が可能なものとなった。

 空襲は、マリアナ基地が完成した11月24日から、連日のように行われた。市川が被害にあったのも、この日からである。

 

〔1944(昭和19)年11月27日空襲〕

 この日、市川では三回目の空襲を受けた。爆弾及び焼夷弾三十発近くが、菅野、曽谷、下貝塚、柏井、大野、高塚新田(ここは松戸)に落とされ、死者1名、重傷者2名、家屋焼失・倒壊4棟の被害を受けた。(但し、この数は、柏井、大野、高塚新田を含まない) 時間は、午後1時半頃のようだ。

 

下貝塚・松丸□□さん宅――防空壕のそばへ爆弾。一名死亡。④

 

 □□さんちは、うちはあんな大きいだ(のに)、うち通り越して、後ろの梅の木の座元へつっかかってね、嫁さん死んじまったもんねえ。子供らほら、外に二人いんから、見て来(き)べと思って防空壕のかどへ出ただってさ。丁度その防空壕のかどへ落っこちてね、そんで□□の姉さんそこへ立ってたからうち通り越して後ろの梅の木の、座元へひっかかっただよ。

 

 夕方近くになって、知らせを聞いて行った。主人はいなくて子供が6人いたので面倒を見た。みんなで捜したら裏の竹やぶにいた。誰かが「戸を外せ」と言って戸をたんかがわりにして病院へ運んだ。手も足も爆風でやられて持つことが出来ない。夜、病院で「子供どこにいる?」と子供を心配して、水を一杯飲んで亡くなった。

 

 その時、私は召集中で満州にいた。「亡くなった」という通知が来たので12月の下旬に帰国し葬式を出した。そして、翌年の1月中旬に再び満州へ向かった。やっぱり運命とあきらめるより、しょうがない。(松丸 □さん証言)

 

松丸さんの奥さんは、この空襲でただ一人亡くなられた方である。遺族の方にもう少し様子を伺いたいと思い訪ねたが、叶わなかった。遺族の方の気持ちを察し、それ以上のことは聞けなかった。

(略)戦争とは、例え理由が何であれ、「ヒトヲコロス」ことが目的である。

(略)一体、松丸さんの奥さんが、殺されなければならない理由がどこにあるのか、B29を操じゅうしていたアメリカ人が、爆弾を下貝塚に落とさねばならない理由がどこにあるのか?


イ 終戦と同時に大柏小学校の先生を辞めた父

2025年6月23日、NHK朝の連続テレビ小説「あんぱん」で、教師をしていたのぶが、戦争中間違った教えを説いていたことを悔いて教師を辞める場面が描かれました。

実は大柏小学校でも、同じような教師がいました。

根岸桃子さん(1928・昭和3年生まれ)は、私の父の兄の妻です。先生を辞めた人は、外祖父に当たります。伯母自身も、小学校の教師を経験していたので、重みのある言葉として受け止めました。

 

少国民と学校と

 日本の戦争を正当化し自らも進んで戦争へ協力する国民を作ること、それは戦争を続ける為には、とても有効なことであった。

(略)1941(昭和16)年3月、国民学校令が出され、(略)橋田文部大臣は訓令の中で、「我が国の教育は、教育に関する勅語の聖旨を奉体し、皇国の道に則りて国民を錬成し、皇運を無窮に扶翼し奉るを以て本義とす。」と述べた。

 

〔学校の先生として〕

 私の父親が、終戦と同時に(先生を)辞めたの。と言うのは、教育方針が、もう全く、全くあれでしょ、昨日と今日が全然違う訳でしょ。でね、そうゆうことがね、自分にはその、子供達に教えられない、って。今まではも、軍事的なそうゆうことで、教育してた訳でしょ、それで、それを疑いもなく、私達は受け止めてた訳でしょ、そうゆうことを、ここまで教えてたのに、この日からは、もう、全く反対の事を教えてる訳でしょ。ネ。でそうゆうことは自分にはできないっつってね、辞めた訳。それで、農業組合ってとこ、そこにしばらくお勤めしていて。

 それから何年位してからかな、やっぱし、「ぜひぜひ」って言われて、きっと、気持もおさまったんでしょうね、あのう、それで、今度は、始めは(大柏)小学校に勤めてたんだけど、今度は、だから六三制になってからよね、あのう中学、第五中学校に、ネ、勤めたの。

 今考えると、父親何かも、随分苦しかったと思うわよねえ。あの、そうゆう、教える事の、全く昨日と違うことを、教えなければならないっていう、それから、絶対自分には出来ないってゆう、辞めた気持ち何かもねえ。

 

🔊https://www.facebook.com/akiyuky/posts/pfbid07Aq3eZcRLn72CvB4QnwPnWS6L7ceDH3iZRXjSTmhSFTbUdYUUorQoFi6RzwF6cLVl

 

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あんぱん」のぶ教師を辞め…次郎さん危篤 ネット涙&悲痛「早すぎる」「速記でメッセージ?」

スポニチアネックス 2025/6/23

 23日、第61話が放送され、若松次郎(中島歩)が危篤に陥った。

(略)第61話は終戦から5カ月が経ち、1946年(昭和21年)1月。GHQ指導の下、国民学校は軍国主義教育からの転換が図られ、教科書の該当部分は墨塗りが進められる。若松のぶ(今田美桜)は病が一向に回復しない若松次郎(中島歩)の見舞いに、海軍病院に通っていた。努めて明るく振る舞う中、夫に“あること”を打ち明ける…という展開。

(略)のぶ「次郎さんのせいではありません。うちは、子どもらあに間違うたことを教えてきました。日本は必ず勝ちますと。男の子には、立派な兵隊さんになって、お国のために頑張りなさいと。あの子らあの澄んだ目を見たら、何ちゃ言えんなってしもうて。その時、うちはもう、教壇に立つ資格はないと思うたがです」

 次郎「君らしいね。僕も、船の上から戦況を見て、この戦争は悲惨なものになると思うちょった。けんど、何もできんかった」

 のぶ「うちは、子どもらあまで、巻き添えにしてしまいました」

 

🔊https://mainichi.jp/articles/20250623/spp/sp0/006/121000c


2 市川民話の会調査編集『市川の伝承民話 第5集』1988 市川市教育委員会

『郷土と戦争』の聞き書きは、資料的価値が高いと思い、市川民話の会が次の編集をしていた『市川の伝承民話』に掲載してもらえないか相談したところ、掲載してもらえることになりました。

下貝塚中学校時代の国語の恩師が、市川民話の会の湯浅止子(しずこ)先生で、中学生時代から市川民話の会の「市川の民話のつどい」に、観客として顔を出させていただいていた縁からです。

トークリレーでは、この資料集から、展示で取り上げられていた「松根油」のほか、戦地に行かない銃後の女性や子どもにまつわる話、市川らしさの見られる「梨」についてお話ししました。

第5集は、第1集からまとめられた『市川の伝承民話』1992としても読むことができます。

 

松根油

 それどこの家(うち)でも、松の木あれば、鋸で、で松根油を出して、それで、ま、飛行機に、使った訳だ。随分まあ、日本も、ひどかったもんだ。日本負けて当然だったって訳だ。その時分にはね、誰も「戦争負ける」ってな気持ちあったですよ。

(略)松根油出したって飛行機飛べやしないよ。

(話  松丸巳之助・下貝塚)明治38年生まれ

(記録 根岸英之)

 

空襲のうわさ

 あのう「クリスマスにはね、あのうB29がね、集団でやって来んだとよ、んだからどうしよう」なんてみんなで「どうしようか」何てやって、みんなねえ、震えてた時もあった。

(話  加藤なつ・下貝塚)明治39年生まれ

(記録 根岸英之)

 

機銃掃射

 怖かったのは学校へ行く時にねえ、敵の飛行機が来る訳ですよう。(略)あの、下は一面田圃ですから、馬坂の下からこう、全部、こっち秋山の方まで全部田圃でしたからねえ。でーそこ畔(あぜ)、伏せたんですね。

(話  松丸健美・下貝塚)昭和11年生まれ

(記録 根岸英之)

 

ナナコトメエリ(七処参り)

 あたしら方はそこ、第六天様って高根にあんでしょあれ古(ふり)ですからねあそこ参って、からずうっと柏井(子安様)回って、せえから大野(迎米の三社宮)回って、高塚(たかづか)(八幡様)回って、から八幡(やわた)の八幡(はちまん)様へ回って、そえから若宮(八幡様か?)へ回って――。それから姥山の、八幡様へも行って、そんでおしまい(笑)!

(話  河之辺ちゑ・奉免)

(記録 根岸英之)

 

おっぱいも出なくて

 (戦時中)全く男達なんて一人もいなかったですもんねえ若い人はねえ。じいさんとばあさんばっけでしょう。ほんでァ、子供はみんな、三つ四つになる子供や生まれたての子供しかいないだもん。

 そんで御飯ていえば、大根(だいこ)にさつま芋飯でねえ。ひどかったあ。おっぱいはろくに飲ませられやしね、米の粉、米ひやしといて、それですり鉢ですって、それでこう、鍋で煮立てて、ネ、お砂糖ちっとも、入(い)れればいいだけど入れらんないで、そのまんま、飲ませちゃって。

(記録 根岸英之)明治38年生まれ

 

梨について

 だから梨なんてねほら、水菓子なんてのはぜーたくもんだから、それより、五穀ですね、いわゆる、米とか麦とか粟(あわ)とか稗(ひえ)とかそういうものを、作るように、強制的にね。

(話  加藤慈教・柏井)

(記録 根岸英之) 

 

採訪を終って 根岸英之

 "戦争"という語りを「民話」に含めてよいかは議論の分かれるところだろうが、(略)後世に語り伝えるべき"民衆の話(・・・・)"としての価値は、十分にあるのではなかろうか。(略)

 これからも、"現代に息づく民話"にも、聞く耳を持って接していきたいと思う。

 

あとがき 和爾貴美子

 若い根岸君が、積極的に採話してくれたので、心強かったです。どうぞ、他の方々も、年令に関係なく、フレッシュな感覚で、市川の昔をさぐってくださるよう望んでいます。

 

画像:トークリレー資料


3 松谷みよ子『現代民話考9 木霊・蛇ほか』1994 立風書房

おそらく1988年の大学1年生だったと思いますが、松谷みよ子さんが建て替え前の市民会館の2階に、講演会でいらっしゃいました。終演後、持って来た『現代民話考 銃後』にサインをしていただいたのが、いい励みとなりました。次にまとめる本のために、木や蛇にまつわる話をお送りしたところ、松根油と国府台高校の軍隊の怪談を掲載してくださいました。

松根油は『市川の伝承民話 第5集』に掲載した資料ですが、釜を据えて根っこから油を採ったとあり、今では聞けなくなった内容で、1987年に聞いておいてよかったと思います。

 

松根油を採る

 切ったやつはその根っこを掘って、釜をこしらえて油ァ採ったですねえ。

 千葉県・石井元裕/談

〇千葉県市川市。本文。話者・石井元裕。記録・根岸英之。出典・「市川の伝承民話」五集(市川市教育委員会)。

 

木にまつわる怪談

〇千葉県市川市。国府台高校の建っている所は、戦前は兵舎であった。そのため、兵隊の幽霊に関する怪談が多く語られている。新校舎の裏手に、柳の木が一本生えている。かつてこの木で首吊り自殺をした人がいるらしく、やはり幽霊になって現れるそうである。

 話者・向後和知。回答者・根岸英之(千葉県在住)

  

🔊『市川の伝承民話』における「世間話」「生活譚」再考--市川市国府台周辺の「軍隊にまつわる話」を通して 根岸英之 『口承文芸研究』28号 2005  

 https://researchmap.jp/hideyuki-negishi/published_papers/30095751 


4 『市川の伝承民話 第8集』2004 市川民話の会

1988年、國學院大學で民俗学を学ぶようになり市川民話の会へ正式に加わりました。

1997年から1998年にかけて、陸軍の置かれていた国府台周辺の調査を行い、『市川の伝承民話 第8集』(2004 市川民話の会)としてまとめました。「軍隊にまつわる話」が多く聞けたので、独立した章立てとしました。このような話や"記憶"を語りつぐことも、市川にとって大切なことだと思います。

 

陸軍施設と日よけイチョウ

和洋女子大学正門のところには、歩哨が立っており、その日よけのために、イチョウが植えられました。

 

軍隊にまつわる怪談

歩哨と恋仲になった女性が、歩哨を驚かせようと無言で訪ねていったら、歩哨は怪しい者と勘違いし女性を撃ってしまった話が伝わります。国府台高校には、兵隊が身投げした井戸、兵隊の幽霊が出るなどの怪談が伝わっています。

 

🔊国府台周辺の戦にまつわる民話を聴こう


1980年代後半の高校生時代に採訪したころは、まだ明治30年代生まれの方からお話をうかがうことができました。

今となっては、貴重な聞き書き資料になっているといえます。

こうした戦争体験を〈民話〉という視点から捉えることは、戦争という大きなうねりの中にあった一人一人の〈声〉や〈思い〉を感じ取ることができるように思います。

これからも、市川の戦争を語りつぐ意義を共有していきたいと思います。


■市川民話の会(湯浅止子)「市川と戦争」

【根岸による聞き書き】
今は「文教都市」「文化都市」と言われる市川は、戦前は国府台に軍隊が置かれ「軍隊の町」でした。
和洋女子大学の辺りに通信、千葉商科大学の辺りに馬の訓練場がありました。
(昭和時代には和洋女子大学辺りに騎砲兵大隊、千葉商科大学辺りに野戦重砲兵第七連隊があった)

 

遡ると、幕末の戊辰戦争のときには、近藤勇や土方歳三ら新撰組も国府台を通っていきました。

 

先月7月に話を伺った大野町の浅海文雄さん(昭和9年生まれ)は、話しておかないと忘れちまうといって、2時間お話しし通しでした。戦争が終わり、通っていた旧制市川中学校が現在の国府台高校のところに移転すると、終戦とともに先生が全く違うことを教えるのが嫌になり、中途で退学してしまったそうです。
宮田小学校のところにあった女学校に通っていた水野幸子さん(昭和7年生まれ)は、戦後市川中学校と合併して国府台高校となった時、総武線の南側から木の机と椅子を持って歩いて移動したそうです。国府台の坂を上がるのがとても苦労しました。

 

血清研究所があったとき、第一中学校の教員をしていましたが、動物を焼却する臭いが煙突からしてきて困りました。生徒が「今日はモルモットだな」などと話します。給食のときに流れてくると、耐えきれず鼻を押さえていました。あまりひどいときは教頭に「連絡してくれ、せめて給食の時間だけは止めてもらいたい」とお願いしました。

 

昭和初期、中国の郭沫若が亡命して須和田に住みました。その家は、田中隆三さん(昭和6年生まれ)の敷地でした。いざというときのための隠し押入や裏口などがありました。今は記念館として移築されています。市議会議員をしていたとき、中国からの視察団が来ると、決まって料亭白藤で食事をし、郭沫若邸を案内しました。一度、郭沫若の生家のある楽山市を訪れたことがありますが、とても豪勢で「ここは生まれた部屋」「ここは勉強した部屋」といくつも部屋がありました。須和田の家とは比べ物になりません。

🔊市川の文化人・郭沫若を古老の証言で知ろう

🔊郭沫若旧居 楽山市

 https://www.leshan.gov.cn/lsswszf/dsyjyz/202012/5282d6ccb6ea4db0b17e890eda8838d3.shtml

 

太平洋戦争末期、市川中学に通っていた田中隆三さんは、学徒動員で中山競馬場に集められた馬から、破傷風の血清を作るため血を抜く作業に携わりました。終戦になると、偉い兵隊たちはさっさといなくなり、残された馬を持って帰っていいと言われ、自宅に連れて帰りました。ところが、「人が食う物もないのに馬に食わせるものはねえ」と怒られ悲しかったそうです。


■平井宏治(ケアカフェいちかわ・市川空襲体験者)「子どもの目から見た戦争」

【根岸による聞き書き】
昭和15(1940)年、市川市国府台下の根本生まれ。1歳から5歳という多感な時期が戦争の時代。
国府台に陸軍があり、通りは毎日、兵隊さんの行進で道も渡れないほどだった。
根本の辺りは、兵隊さん相手の店や銭湯などがあった。

 

子どもが遊ぶのは、もっぱら江戸川土手。
土手には、白衣の兵隊さんが、看護師さんに連れられて散歩していた。どこも負傷した様子もないのに、白衣を着ていて変だなと思った。歩き方が変わっていて、目を合わせない感じだった。今思えば、戦地へ征って精神をおかしくして、国府台の精神病院に入院していた人だった。当時の日本人には、戦地で気を病む人はいないとされ、おおっぴらに出来ないことだった。

 

どこの家にも小さいながら庭があり、土を掘ってトタン屋根を乗せた2畳程度の防空壕があった。空襲警報がなると防空壕に入ったが、土くさいし、虫もいた。

 

風呂に入った記憶はなく、母が手拭いで拭いてくれたくらいではないか。

 

偵察機は非常に速く、空襲警報が鳴ったとたん、空を飛んできた。
飛行機の爆音はすごいもので、今テレビ局のヘリコプターが飛んで音を立てるが、あんなものではなかった。B29とグラマンの音は違っていて、悲しいことに、5歳の子どもでもその区別ができていた。
柴又の辺りで飛行機の空中戦があったのを、江戸川から見た。

 

よく面倒見てくれた親類のおじさんは海軍に入り、たまに帰ってくると軍服姿がかっこよく、自分も大きくなったら兵隊さんになろうと思った。
友だちのよっちゃんのお兄さんも海軍になった。ある日、回覧板が回ってきて、「よっちゃんのお兄さんが出征するので、江戸川の上に来てお別れをします。皆さんで見送ってください」ということが書いてあったという。
その日にみんなで江戸川土手に出ると、時間通り、南の方から飛行機がやって来て、江戸川の上を見事に三回回って羽根を左右に揺らしてお辞儀をすると、また海の方へ帰っていった。
子どもたちはかっこいいので、万歳と叫んでいたが、大人たちはどうしたわけか、涙ぐんでいた。
お兄さんは人間魚雷回天の乗組員として出征したことを、大きくなって知った。

 

昭和20年3月10日の東京空襲は、寝ていると、祖父に連れられ江戸川土手で「いいかよく見とけよ」と見た。手が見えるくらい明るかった。
国府台の高台辺りからサーチライトが照らすが、まさに雲霞のごとく数えきれないの飛行機が音を立てて東京へ向かっていく。国府台辺りの高射砲から、高射砲がぼーんぼーんと撃ち上がるが、届くものではなかった。

 

今でも悔しく思い出されるのは、三輪車に乗って遊んでいたら、国府台の軍隊の車が来て、兵隊さんに乗っていたところを下ろされた。供出だといって、三輪車が車の中に投げ込まれてしまった。泣きながら祖父のところへ行き「なんとかして」と頼んだが、どうにもならなかった。しばらく喪失感に泣いてばかりいた。

 

子どもながらに、ほっとしたと感じた日があった。
子どもたちは、いつものように朝から遊んでいたが、世の中がとても静かだった。昼になって家に戻って、縁側から家の中をのぞくと、大人たちがラジオを囲んで頭を垂れていた。なにか様子の違うことは分かった。これでゆっくり寝られる。もう空襲を心配しないでいいんだと分かると、「万歳」と声を上げたい気持ちだったが、上げてはいけないことも分かった。

 

戦争が終わると、進駐軍が国府台へ接収にやって来た。親からは「進駐軍が来るから外に出ちゃいけない」と言われた。こっそりゴミ箱の後ろから通りを見ると、日本の車より大きな車に、金髪で目の青い姿が白い腕をまくって銃を抱えて乗っていた。そんな姿は生まれてこのかた見たことがなかったので、あわてて家へ逃げ帰り、「かあちゃん、鬼が来た」といった。母に口を押えられ、「しーっ」と叱られた。

 

家は酒屋をやっていたので、進駐軍の兵隊さんもきた。ある日、兵隊が二人やって来て、のどが渇いていたのだろう、「ビール」を注文したようだ。母が椅子を並べ、ぎこちなさそうに瓶とコップを差し出した。戸の陰からのぞいていたら、兵隊に見つかって、こっちへ来いと、手を招いている。行かないと何されるか分からないので、生きた心地のしないなか近づくと、膝に抱きかかえられ、頭を撫でられた。
生まれて初めて嗅ぐオーデコロンの匂いで、くらくらした。
日本の兵隊はみな汗臭くて近寄りたくなかったのと全く違っていた。
そのうち、「ワン、トゥー」と数字を教えはじめたので、後について繰り返した。次は「サンデー、マンデー」だった。発音は難しかったが、とにかく真似した。
店の外には、たくさんの野次馬がのぞいていた。
お礼にチューイングガムとチョコレートをもらった。

 

解放されて友だちのところに行くと、「何もらった」というので、チューイングガムとチョコレートを出した。チョコレートはこの世にこんな美味しいものがあるのかとびっくりした。
チューイングガムは、それからひと月くらい、みんなで噛んでいた。自分が一日かけて噛み終わると、それを友だちに渡し、友だちは洗ってから自分が一日かけて噛む。それがまた次の友だちに渡っていった。