2025年7月5日、じゅん菜池を考える会主催「じゅん菜池茶話会」が市川市西部公民館で開催されました。
根岸英之の講話の内容を掲載します。
〈市川学〉へのいざない 5
じゅん菜池周辺の池や水神にまつわる伝承
ー「姫宮」のご近所さんから見えるものー
根岸英之 〈市川学〉コーディネーター
市川民話の会会員
じゅん菜池緑地の「姫宮」には、「国府台合戦」で負けた里見氏の姫が身を投げたとか、池の主の蛇を祀るといった伝承が見られます。
かつては、中世の板碑が祠に納められていたそうです。
また近隣には、堀之内の「弁天様」の里見姫の水死伝承、曽谷の「弁天池」(以前は「じゅん菜池」といった)の百合姫入水伝説、真間の「手児奈霊神堂の池」は手児奈の入水した真間の入江の名残などの伝承もあります。
似たような伝承から何が見えてくるか探ってみたいと思います。
0 〈市川学〉とは
市川の地域研究者・鈴木恒男氏(1932ー1998)が提唱
根岸による暫定的な定義
〈市川での自身の暮らしの中から、市川の魅力や課題を見つけ、「なぜ」と考えを深めていく。自分にとっての〈市川学〉を、他の市民と分かち合いながら、関心の輪を広げていくことにより、市川を自分に根差したまちとして捉え、創造していく営み。〉
1.じゅん菜池「姫宮」には板碑が祀られていた
じゅん菜池の「姫宮」は、一般には室町時代、「国府台合戦」のおり、じゅん菜池に身投げした里見方の姫を供養する祠だと言われている。あるいは、池の主の蛇を祀ったものともされる。こうした点は、前回の会でお話した。
ここでは、「板碑」が「姫宮」に祀られていたことについて取り上げる。
「板碑」は、中世に供養のために建てられた石碑である。
「姫宮」の「板碑」に触れた文献としては、金風の報告が最も早い。
1 永享9((1437)年板碑
◆金風「鴻臺野話」『歴史地理』2ー5 1900(明治33)年8月号
〈練兵場の陰に在る蓴菜池の畔に姫宮大明神といふて大層さかる【、、、】神様がある、御神体を窺【のぞ】いて見るに磨滅した板碑の残片で、永享九年【、、、、】のものだ。〉
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/3566260/1/19
永享9年の板碑が祀られているとある。金風は未詳。同時期に永井金風(1868ー1926)(東洋史学者)がいるが、内容的に市川に土地勘のある郷土史家的な人物と見られる。同文献には、下総国分寺、国分尼寺の比定説が示され、国分寺研究史では基礎文献として引用されていることから、根拠の乏しい文献とは見なし難い。根拠のある資料と捉えておきたい。
◆吉田東伍『大日本地名辞書 下巻』1907(明治40)年 冨山房
〈真間山 蓴菜池の辺に、姫宮とて小祠あり、神体は永享九年の識ある板碑なりとか、疑ふべし。〉
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/2937059/1/72
本書の記述は、金風の報告に拠るものと考えられる。
◆篠崎四郎『房総金石文の研究』1943(昭和18)年 自刊
〈青石板碑 永享九年 市川市国分村蓴菜池 姫宮 「大地名」〉
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/1042101
本書は、千葉県下の板碑資料に関する先駆的な文献であるが、「姫宮」の板碑の典拠として、『大日本地名辞書 』を掲げる。この段階において、すでに永享九年の板碑の所在は不明であったと理解される。
◆『千葉県史料 金石文篇2』1978 千葉県
〈姫宮堂 市川市国分(市川市)
〇蓴菜池に投身した里見氏の息女を祀ったといわれる。
六二 武蔵板碑(亡「大地名」)
永享九年〉
本書も『大日本地名辞書 』を典拠に永享九年の板碑を示すが、所在は亡失とされる。
2 天文19(1550)年板碑
◆『千葉県東葛飾郡誌』1923(大正12)年
〈姫宮、国分字六段田蓴菜池の東南、松林中に一小丘あり、此に、一小祠あり、姫宮と云ふ、是れ里見氏の息女、此池中に投身せしを祀れるものなりと、祠中に縦一尺五寸位の石あり、裏面記して云ふ、天文十九年別当経王寺と、表面は磨滅文字を弁ぜず。〉
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/9640160/1/647
本書は大正時代に編まれた地誌として典拠性の高い資料であり、大正時代には、永享9年の板碑に代わって、天文19年の板碑が祀られていたものと推察される。経王寺は市川市国分の日蓮宗寺院。「六段田」は国分村の小地名「六反田」。
しかしこの板碑も、 『千葉県史料 金石文篇』、『市川の板碑』市立市川歴史博物館に記載はなく残念ながら所在不明である。
3 天文11(1542)年板碑
◆今井福治郎 著『房総万葉地理の研究』1964 春秋社
〈なお、蓴菜の池の傍の姫宮と、真間小学校の真間川の土手にある浮島弁天は、テコナ伝説に関係があるとも同氏(郷土史家の君塚裕彦氏―引用者注)はいわれた。姫宮は道の片側にある小詞で、その中に、
南無釈迦如来
無妙法蓮華経
天文十一年月日
南無大日如来
と彫られた板碑が収められているが、浮島弁天の板碑も、これと同系統のものだそうである。姫宮については、その付近の人が、「戦ひに負けた里見氏の姫が、蓴菜の池に身を投げて死んだのを、ここに祀ったのである。池も十年くらい前は、水が一杯あった」と語っていたが、それを聞きながら、玉を母胎にして発展した『南総里見八犬伝』と、テコナを「豊玉姫の故事也」と解く『葛飾記』との説が重なり合って、心を打ったことである。〉
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/1347073/1/100
本書は、郷土史家として知られる君塚裕彦氏の案内に基づく記述であり、根拠の乏しい資料とは見なし難い。天文19年の板碑が入れ替わったものか、年号の判読違いかは確証が得られない。この板碑も、『千葉県史料 金石文篇』『市川の板碑』に記載はなく、やはり所在不明となっている。
なお豊玉姫は日本神話に登場する海神(わたつみ)の娘で、ほのおりのみことの子を産むとき、わにの姿を夫に見られ、うがやふきあえずのみこと(神武天皇の父)を残して海へ去っていったと伝える。水に属性を持つ女性が、男性との婚姻を成就させず、水界へ身を変じていくさまは、今回取り上げる市川の池や水神にまつわる伝承に通底するものである。
『葛飾記』は行徳の青山某になる行徳近郊地誌、寛延2(1749)年刊。
4 天文19(1550)年板碑その二
◆『市川の板碑』1990 市立市川歴史博物館
本書には、経王寺所蔵の板碑として、天文19年の板碑が記載される(下画像中)。2の『千葉県東葛飾郡誌』と同一のものかとも思われたが、碑文から見てその可能性は低いようである。3の天文11年の板碑も年号の判読違いの可能性を考慮して類似の碑文を探したが、該当はなかった。
国府台合戦は、大きく二回にわたって行われており、天文の合戦は足利氏が主将で里見氏は配下として参戦、永禄の合戦は里見氏が全面的に参戦している。
・天文七(一五三八)年一〇月 第一次 足利義明―里見氏 ⇔ 北条氏綱
・永禄七(一五六四)年一月 第二次 里見義堯(たか)・義弘 ⇔ 北条氏康
天文年間の板碑は、国府台合戦と時期を同じくするものであり、それが姫宮に祀られていたならば、姫宮の伝承を考えるうえで、大きな糸口になると思われるのだが、残念ながらたどり着くことはできない。
しかし、室町時代の板碑が姫宮に祀られていたということは、里見氏の合戦と関連づけて受容されていたことを示すものと考えたい。
なお、現在も姫宮を祠守りする経王寺は、寛文4(1994)年に弘法寺末の寺院として国分に創建された日蓮宗の寺院である。住職と奥様に話を伺ったところ、じゅん菜池周辺に経王寺の土地があり、年に一度は住職が供養に参っているとのことだったが、板碑に関わる手がかりは得られなかった。以前は、姫宮に上がった賽銭も受け取っていたが、現在は中国分自治会に寄付する代わりに、祠周りの清掃などをお願いしているそうである。
また、姫宮と経王寺の板碑調査については、元市川歴史博物館学芸員・湯浅治久氏(現・専修大学教授)のご教示を得た。
2.堀之内の「弁天様」「姫宮」と石井家/里見氏
じゅん菜池の「姫宮」と似た伝承が、堀之内の「弁天様」に伝わっている。
1 『石井山竺園寺の仏像 十一面観世音菩薩とその体内仏調査報告』2013 大正出版
綿貫喜郎「国分城跡権現原発掘調査報告」
〈石井重太郎家には家伝として「石井家は鎌倉時代には堀之内の台地上に館を構え、周辺一帯を支配した武将であったが、戦に敗れ館を焼き払われたため、帰農して現在地に居住することになったという。落城のさい奥方は台地下の沼で入水し、姫は敵兵に捕えられ、手足を切断されて惨殺された。」という悲惨な話が伝えられている。
そして、奥方が入水したという沼は、北国分町一四五五番地の弁財天を祀った弁天池で、いまなお石井家が宮守をしており、惨殺された姫も姫宮として合祀されているという。〉
石井久雄「注記」
〈(注1)石井家所有の弁財天は東葛三弁天の第一といわれ、江戸時代から第二次大戦頃まで、各地より多勢の人が参詣に訪れた。元は茅葺の弁財天堂が現在の弁財天堂の左側に建っていたが、いたみがはげしく、戦後(昭和二十年以降)しばらくして現在のお堂に建て替えた。このたび、この弁財天堂も元の位置に新築される。
(注2)国分城(のちの市川城)落城の際、城から逃れようとした姫は権現原貝塚の崖の上でつかまり、手足を切り取られ惨殺された。のち、この姫を祀る祠を建てた。戦後、この場所は道路となり、現在は堀之内弁財天堂の横に祀られている。石碑の横には「明和四年(一七六七)十二月十二日、積生(主か?)、新右衛門」と刻まれている。石井家は落城後、代々新右衛門を名のってきた。石井姓を名のるようになったのは竺園寺創建の南北朝初め頃のようである。姫宮として祀られている姫は、鎌倉時代末、千葉宗家が南朝北朝に別れて戦った時か、室町時代、千葉宗家二度目の内紛の時に古河公方成氏が関宿城簗田氏らの兵に命じ、市川城を攻め、落城させた時かは不明である。〉
🔊 『石井山竺園寺の仏像 十一面観世音菩薩とその体内仏調査報告』
https://dl.ndl.go.jp/pid/13241973
国分城落城の際、池に入水した奥方を祀ったのが「弁天様」、敵兵に惨殺された姫を祀ったのが「姫宮」で合祀されているとする。二人の女性に分割された形になっているが、じゅん菜池の「姫宮」伝承と類似していると言ってよいだろう。
堀之内には、次のような異伝も見られる。
2 『市川の伝承民話』1992 市川市教育委員会
里見姫と弁天様
〈うちの弁天様には、訳があるんですって。うちが、昔、田んぼ借りて作ってたんですよ。小作人でね。その田んぼ作ってる人が、その田んぼ作ると、皆死んだっていう話を聞いてたんですね。
うちの爺さんがね、それで今度、うちで作ってくれって言われて、それで爺さんが、その由来を聞こうと思って。そしたら、里見氏のね、お姫様がね、その池、田んぼ所に池があってね、そこに落ちて死んでるんだって。戦の終りで……だから、そういう死人があるから、多分作った人が、死んだから、弁天様祀ってやれ、って。で、うちの爺さんがね、弁天様作って貰って、田んぼのみちへね、祀って、うちの田んぼ作ったんですって。
して、今度は爺さん作んなくなって、田んぼ返したらね、地主が、「この弁天様は持ってけ」って言うから、うちへ持って来たって。堀ノ内の方の谷津田の田んぼ……。昭和三年三月吉日って書いてある。
話 田中くら・北国分
記録 阿彦周宜〉
田を作ると人が死んでしまうという「忌(い)み地」の原因に、里見の「姫の水没死」が当てられる。こうした伝承の背景には、しばしば宗教者による託宣の関与が想定される。説明不能な〈怪異〉現象を理解可能なものとするために、〈姫の水死〉という〈解釈〉が当てはめられていくのである。恐らく、国分城の姫よりも里見の姫のほうが広く知られており、里見の姫の伝承となったのだろう。伝承とは、時々の受け入れやすい〈解釈〉が付与されて、今日まで生成され続けてきたといえる。
画像 1『石井山竺園寺の仏像』中の地図
2堀之内弁財天堂
3弁財天堂の手水石と池
4弁財天堂右脇の水神碑
5かつて姫宮があったと思われる場所
3.曽谷の「池端弁財天」と百合姫
この伝承も、じゅん菜池の「姫宮」、堀之内の「弁天様」と似た内容を伴っている。
1 『市川の伝承民話』1992 市川市教育委員会
百合台(2)ー百合姫
〈足利時代、千葉氏が二つに分かれて戦ったんだけど、曽谷氏の三兄弟はそん時戦死したんですよ。左衛門丞直繁の娘の百合姫は、嫁に行くことになっていた人が、敵方についたのを知って、じゅんさい池に身を投げたんですって。
百合台は「寄居台」がなまったんだっていいますよ。
話 梶尾健也・曽谷
記録 和爾貴美子〉
2 『市川の伝承民話』1992 市川市教育委員会
百合台(3)ー池っ端弁財天
〈入台が本当で、百合の花が咲いていたから百合台となったってよ。
入海になっていたんですよ。丸木ぶねが出たこともあるんだってね。
寄居台ともいうんですってよ。
寄居台といやあ、そばに、根古屋があるんで、ここにも、屋号が、百合台、根古屋っていうのがありますよ。
角(かど)地の三角の宅地(かやぶきの大きな家が根古屋)にはおおきなしいの木がありますよ。
弥平太っていう屋号もあります。そこが梶尾弥平太のやしきあとです。
梶尾弥平太は「水軍の長」ですね。
室町時代のごたごたで、曽谷にも何回かいくさがあったんですね。
百合姫っていうお姫様がいてね、曽谷氏の姫なんだが、その人が身を投げた池が、曽谷のじゅんさい池ですよ。
今、そこんとこには、姫のことを「池っ端弁財天」としてまつってありますがね。まわりの池は市で埋めたててなくなっていますよ。
じゅんさいは、三百年もたった池でないと、はえないんですってね。
曽谷のじゅんさい池のことだけんど、昔は広くってな、じゅんさいがとれたんですよ。
大蔵省の管轄でな、「妙曽池端弁財天」は毎月十五日に集まってきれいにするんです。
話 松丸参治・曽谷
話 富川静雄・曽谷
記録 和爾貴美子〉
3 『みどりのふぉーらむ』2009年10月号 いちかわ緑の市民フォーラム
根岸英之「文芸からみる市川の自然20 曽谷の百合姫伝承」
〈曽谷と隣り合う下貝塚に住んでいた松丸参治さん(大正3年生まれ)の奥様からうかがった話では、戦前、曽谷に祈祷などをする女性の民間宗教者がいて、その人のお告げで、参治さんらが中心となって、曽谷のじゅん菜池に「妙曽池端弁才天」を祀るようになったそうです。〉
百合姫も、戦に巻き込まれた武将の姫が自ら池に身を投げて死んだとされる。梶尾さんの話では、嫁に行くつもりの男性が敵方についたことで入水したと語られる。添い遂げられないために、女性が水界に入っていくのは、豊玉姫神話と共通する形といえる。
松丸参治さんは2の『市川の伝承民話』には曽谷とあるが、下貝塚が正しい。参治さんの奥様の話から、池端弁財天を祀ったのは、祈祷をする民間宗教者の託宣に拠ってのことだと知ることができる。百合姫の哀れな〈ハナシ〉は以前から伝えられていたのだろうが、それが宗教者の〈託宣〉によって「弁財天」という〈モノ〉に補強され、定着に至った経過を見ることができよう。
おそらく、中国分のじゅん菜池の「姫宮」についても、同様の経過があったものと想像される。
享徳3(1455)年、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏との対立から起こった「享徳の乱」を受けて、千葉氏も両者に分かれて争うことになる。康正2(1456)年、上杉氏に近しい千葉氏が市川城に入り、足利氏と足利氏につく千葉氏による「市川合戦」が起こる。曽谷氏はこの戦に巻き込まれ曽谷城が落城する。市川城については確定されていないが、堀之内の石井家の伝承に基づくと、堀之内の国分城のこととされる。とすると、堀之内の池に身を投げた奥方と、曽谷の池に身を投げた百合姫は、一連の戦による伝承ということになる。
中国分のじゅん菜池に身を投げた里見氏の姫は、それからおよそ80年のちの「国府台合戦」にまつわる伝承となる。
このような「ご近所」に似た伝承が見られるのは興味深い。そこには、〈望まない運命によって男性との関係を遮られた女性は水界に入っていく〉という基層的な心性が投影されているようにも思われる。
一方で、飛躍しているように思われるかもしれないが、太平洋戦争末期、地上戦の激戦地となった沖縄では、多くの自害が語られている。このことに思いを致すと、戦乱の世となった市川では、実際に女性自身の入水による自害が、少なくない形で起こっていたことも十分に考えられる。今に伝わる伝承は、生きてある人々が、彼女たちの死を受け止め鎮魂するために語り継いできた結晶なのだと捉えることもできるのではないだろうか。
画像 1 「縄文の散歩道 曽谷・宮久保界隈発見マップ」市川市文化振興課
🔊https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1521000036.html#m02
2妙曽池端弁財天
4.国分の「弁天様」と双頭蛇
この伝承は、池の主と思われる双頭の蛇が出没するために「弁天様」を祀ったとする話である。
1 『市川の伝承民話』1992 市川市教育委員会
双頭蛇の弁天様
〈ここ(バス停、国分三叉路)は、元、ため池だったですからね。それをね、本当の最近ですよ、埋めたの。
ため池の主だったんでしょうか。蛇がね、頭が二つで、尾が一つの蛇が出てしょうがないので、祀ったそうですよ。だって、気持が悪いですよね。
ですから、今でも、家ではお稲荷さんと同じように、お正月とかお盆とかには、物をあげて、ろうそくあげて、お詣りしてますよ。家だけの弁天様になってますからね。
話 藤城つや・国分
記録 阿彦周宜〉
現在この周辺は東京外かく環状道路が作られ、大きく変貌している。道路沿いにあった藤城家も台地上に移転したらしく、弁天様の所在は確認できなかった。
じゅん菜池の「姫宮」は池の主の蛇を祀ったとする伝承と類似した内容といえよう。
北下遺跡から見下ろす国分川旧流路からは、古代の水辺祭祀の遺構が出土しており、時代はまったく違うが、水にまつわる信仰が行われる場所であったことは興味深い。
画像 1 「坂と史跡の散歩道 国分・稲越界隈発見マップ」市川市文化振興課
🔊https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1511000036.html
2北下遺跡から国分三叉路バス停を望む
3北下遺跡案内板
5.北方町の「妙正寺」と千足池の白蛇
この伝承は、池の主の蛇が女性となって現れ、再び池に戻っていく展開で、民俗的な水神信仰が、日蓮宗によって吸収されていく過程も示しているといえる。
1 『市川の伝承民話』1992 市川市教育委員会
女に化けた白蛇
〈日蓮聖人が、若宮の法華堂で、百日の説法をなさった時です。美しい女の人が、毎日お参りに来ていたそうです。
百日の説法が終った日、その女の人が
「おまんだらと、法号をいただきたい」といったのです。
聖人は、その女の人から立ちのぼる異様な気を感じられ、かたわらにあった花びんの水をかけたところ、女の人は白蛇になって、机の上の法華経八巻をうばって逃げ出したのです。
逃げる途中、次々と七巻を落し、千足池まで来ると、ふっと姿が消えたそうです。そして、黒雲がおこると、池の水がたつまきとなって天にのぼったのですが、追って来た人々が気がつくと、八巻目が、池につき出ている桜の木の枝にだらりとかかったいたということです。
白蛇は、千足池のうば神様だったのです。
後に、うば神様は、聖人の弟子となって得度(とくど)して、「妙正」という法号を受けることができました。
「竜経山、妙正寺」というお寺に、妙正尼がまつられていますが、美しい白髪の老婆のお姿をした像です。
白蛇が逃げた道は、「蛇小路」とか「まんだら小路」などといわれています。昔は、草のはえた、うねうねした細い道でした。
(略)
記録 和爾貴美子〉
日蓮宗以前に、池に棲む白蛇は「姥神」として畏怖される信仰があり、それが日蓮宗によって取り込まれていったことを示す伝承と考えられる。
中国分の「姫宮」も、日蓮宗の弘法寺より分かれた経王寺が掌握しており、あるいは、日蓮宗掌握以前に池の蛇を主とする信仰があり、日蓮宗によって、里見氏の姫にまつわる伝承が強化されていった可能性を見ることができるかもしれない。
画像 1妙正寺地図
2妙正寺
3妙正寺掛け軸
6.真間の手児奈と水を司る巫女(付・里見龍神)
最後に「ご近所さん」として最も知られる「真間の手児奈」について、水との関わりから眺め、水や水神にまつわる伝承に通底するものを示したい。
1 万葉集
〈葛飾の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
高橋虫麻呂 万葉集 巻九ー一八〇八番歌
葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
山部赤人 万葉集 巻三―四三三番歌〉
「万葉集」は八世紀半ばころ編さんされた日本最古の歌集で、虫麻呂は732年前後に活躍、赤人は聖武天皇(701~756)に仕えた人物で、ほぼ同時期の宮廷歌人である。二人が手児奈を詠んだ時代、手児奈はすでに遠い昔の出来事として伝承上の存在となっていた。
虫麻呂は「真間の井」に水を汲む手児奈を、赤人は「真間の入江の玉藻」を刈る手児奈を詠んでいる。すでに伝承上の女性を偲ぶ歌に、なぜこのような姿を詠む必要があったのだろうか。水汲みや玉藻刈りから、手児奈を「漁師の娘」や「海女」だったとする説のある一方、以下のような見方が出されている。
1 『てこな TEKONA』市川市文学プラザ 2009
手児奈は神さまに仕える巫女さんだった?
〈虫麻呂の反歌にある「水汲ましけむ」は、生活に必要な水を汲んだのではなく、神さまに仕えるたまの水を汲んだことを詠んだと考える人もいます。水は古代から神聖なものとして用いられてきました。
また、「玉藻刈りけむ」ということも、藻塩を作るためではなく、神事に使う海草を刈っていたのだと見る説もあります。
そう考えると、手児奈は、神事を行う巫女さんだったと見ることもできるのです。
神さまに仕える身だから、人間の男からの求婚を断ったと理解することができるわけです。〉
じゅん菜池の「姫宮」、堀之内の「弁天様」の奥方、曽谷の「百合姫」、真間の「手児奈」は、日本神話の「豊玉姫」同様、いずれも〈望まない運命によって男性との関係を遮られた女性は水界に去っていく〉さまを語っている点で共通する。
こうした伝承を支える基層には、語られる女性は一般の女性とは異なり神と関係を結ぶ特別な存在として見なす心性があったものと考えられる。
2 折口信夫「水の女」
国文学者・民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)は、「水」の関わりを手がかりに、「水の女」という考え方を説いている。
共同体を治める貴い身分の人(それは共同体の神とも等しい)が誕生するとき、禊(みそ)ぎや産湯(うぶゆ)といった水の霊力によって手助けする巫女が存在した。そのために、特別な女性を水と結びつける心性が培われたという考え方である。
折口の考え方は難解であるが、水は万物の生命の源であり、子どもを産む女性性と結びつきやすい。妙正寺の「うば神様」の「うば」も、子どもを産み育てることを示していよう。
共同体を治める貴い身分の人と特別な関係を結ぶ女性であるから、それ以外の男性との関係が生じようとすると、自分の属する水界に身を隠していくという伝承が受容されるのである。
折口の「水の女」は、異なる共同体間の権力関係における女性の処遇にも視点が及んでいる。
里見氏の姫と百合姫は自分のいいなずけと、国分城の奥方は自分の夫と添い遂げることができず、仮に生きて敵方に身を委ねれば、敵方の男性と特別な関係を強要される恐れが生じる。それは敵方の男性と新たな「水の女」としての関係性を持つことを意味する。それを拒むために、女性は自分の良しとする水界へ身を投げ入れることを選んだと見なせるわけである。
真間の手児奈、妙正寺のうば神様を「水の女」の視点で捉えたものに、鈴木恒男『さまよえる手児名 手児名伝説を追って』がある。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/16031_14239.html
https://dl.ndl.go.jp/pid/14198852
🔊鈴木恒男『さまよえる手児名 手児名伝説を追って』自刊 1996
https://dl.ndl.go.jp/pid/14199999
2 里見龍神略縁起
なお、講話では取り上げなかったが、弘法寺境内の「里見龍神」は、青森県弘前市で祀られていた里見八犬伝の伏姫の精霊のこもった白蛇と小鳥の枯骸を、昭和26年に奉安したという伝承がある。姫と蛇の関わりを「龍神」として祀り上げる点で、一連の伝承と連なる「ご近所さん」であり、ここに紹介しておく。
〈聞くところによると、里見の姫桜の毎年咲く花ゆかりの伏姫の行方は、ただ奥州ということで、古老の口伝えに残るのみでしたが、昭和26年の晩秋、青森県弘前市の住人堀哲氏が来山し、
「里見の伏姫様の精霊がこもったという白蛇と小鳥2羽の枯骸を祀ってましたが、ここ数年来1度2度ならず小堀一族に不思議なことが起こり、意を決して神の御心が
「里見ゆかりの真間の山の上に帰してほしい」と言っているのだと感じ、持参しました。」と言われ、半信半疑ではありましたが、庫裡に里見龍神と仮称し、仮奉安していたところ、それ以来思いのほか、少なからず霊験を現し、ついには社殿造営の決議が起こり、神のご威光の示すところ、すなわち工事の完成をみるに至る。
故に、改めて『里見龍王大善神』と公称奉り広く参拝の人々に御利益をあたえるところとなった。
昭和三十三年十月一日 真間山弘法寺〉
🔊1月2日にヘビ神様に会いに行った。千葉県市川市 真間山 さくらんぼの種を発芽させる方法 [自己流の園芸術]
https://tanemaki-garden.hatenablog.com/entry/2025/01/03/065241
画像 1手児奈霊神堂池の片葉の葦
今回取り上げた一連の伝承は、表層的には「女性が池に入水する」行為を哀れなものと受け止めるものだが、その基層に〈女性が水界へ去っていく〉行為を受け入れる心性が働いているということを見てきた。今日まで伝承されてきたのは、市川の人々が彼女たちの死を受け止め鎮魂するために語り継いできた結晶ともいえる。
真間の手児奈については近年、「たくさんプロポーズされたのに自殺する。その気持ちが理解できない」「現代的な感覚とかけ離れている昔話は途絶えてしまう」として、「頭が良い自立した女性として描き、最終的には村人の幸福を祈って姿を消すという結末」に変更されたりもする。しかし民俗学的には、〈女性が水界に去っていく〉という行為は女性の望む形での自主的な選択でもあったと捉えられる点も視野に入れておきたい。
https://note.com/makishimam/n/n075a4ec48e92
じゅん菜池の「姫宮」伝承とその「ご近所さん」の伝承を通して、〈市川学〉としてアプローチする方法を示してきた。
🔊110 中国分・じゅん菜池の「姫宮」とヘビ 文芸からみる市川の自然 2024年 根岸英之


















