2025年3月29日、じゅん菜池を考える会主催「じゅん菜池茶話会」が市川市西部公民館で開催されました。
根岸英之の講話の内容を掲載します。
〈市川学〉へのいざない
じゅん菜池にまつわる伝承をたどる
ー里見の姫か主の蛇か?ー
根岸英之 〈市川学〉コーディネーター
市川民話の会会員
じゅん菜池緑地の南側、道路脇の樹木の元に「姫宮」と呼ばれる祠があります。一般には室町時代、国府台一帯で繰り広げられた「国府台合戦」のおり、戦場から逃げてじゅん菜池に身投げした里見方の姫たちを供養する祠だと言われています。
しかしまた、じゅん菜池の主である蛇を祀ったものだという伝承も聞かれます。
国分平川地区にかつてあった「鏡石」は、「姫宮」と関わるものともされます(現在は京成真間駅に模造が安置)。
国府台の「辻切り」の大蛇も、池を見下ろすように一体がにらみを利かせていました。
じゅん菜池にまつわる伝承をたどり、秘められた深層を読み解いていきましょう。
0 〈市川学〉とは
市川の地域研究者・鈴木恒男氏(1932ー1998)が提唱
根岸による暫定的な定義
〈市川での自身の暮らしの中から、市川の魅力や課題を見つけ、「なぜ」と考えを深めてていく。自分にとっての〈市川学〉を、他の市民と分かち合いながら、関心の輪を広げていくことにより、市川を自分に根差したまちとして捉え、創造していく営み。〉
1.じゅん菜池「姫宮」と国府台合戦
一般には室町時代、「国府台合戦」のおり、じゅん菜池に身投げした里見方の姫たちを供養する祠だと言われている。
じゅん菜池緑地入口に建つ案内板と、市川市ホームページの説明文を示す。
◆じゅん菜池緑地 街かどミュージアム拠点案内板
文化の街かど情報 “姫宮と夜泣き石”
戦国時代、この国府台地域で、後北条氏と里見氏との間で、国府台合戦が行われました。この戦いに敗れた里見軍の武将の娘にまつわる伝説が2つ残されています。
じゅん菜池公園の南側入口付近の道路沿いに「姫宮」と呼ばれる小さな祠があります。これは、国分沼(現在のじゅん菜池)に身を投げた里見軍の武将の娘を供養するため、里人たちが建てたといわれているものです。
また里見公園内には、「夜泣き石」と呼ばれる石があります。戦死した里見軍の武将里見弘次の娘が、その石にもたれて泣き続け、そのまま亡くなってしまった後、毎夜悲しい泣き声が聞こえるようになったという言い伝えの残る石です。その後、ある武士がこの姫を供養してからは泣き声は聞こえなくなったといいます。
(2025年現在、案内板は劣化して文字面がひび割れており、以下のサイトを参照した。
画像も転用させていただいた。)
🔊「じゅんさい池緑地 千葉県市川市中国分」(墳丘からの眺め)
https://massneko.hatenablog.com/entry/2016/06/10/000000
◆市川市公式サイト「国府台・堀之内界隈」「じゅんさい池緑地」
この地の袂にある「姫宮」は永禄の合戦で破れた里見軍の姫君が身を投じ、それを祀ったものと伝えています。
🔊https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1511000031.html
じゅん菜池周辺は、国府台合戦の激戦地であり、こうした伝承が生まれたのだろう。
国府台合戦は、大きく二回にわたって行われており、天文の合戦は足利氏が主将で里見氏は配下として参戦、永禄の合戦は里見氏が全面的に参戦していることから、「姫宮」の伝承は、永禄の合戦にまつわるものと比定される。
・天文七(一五三八)年一〇月 第一次 足利義明―里見氏 ⇔ 北条氏綱
・永禄七(一五六四)年一月 第二次 里見義堯(たか)・義弘 ⇔ 北条氏康
2.じゅん菜池「姫宮」と蛇
興味深いのは、「姫宮」を蛇と結びつける伝承が聴かれる点である。
1 じゅん菜池の姫宮さま(1)
姫宮さまって。ま蛇の神さまですね。
話者・山崎正三郎(国分 明治44年生まれ)
『市川の伝承民話 第八集』2004 市川民話の会
2 じゅん菜池の姫宮さま(2)
山本ジヘエってゆううちの、じいさんか。あれからいわせばじいさんだから、もう今から、ううん、もう何十年、何百年でもないけど、何百年だろなあ、もう、明治時代の初期でしょう。ね。明治初期、もっと前(めぇ)かなあ。
そのじいさんがそのねえ、その姫宮さま、ハナシですけんどねえ、むかしほら、大嵐あって、大嵐あったから、山の木倒されたんだろうと、みんな、昔は木を大事にしたから、見に行っただ。っだ(だから)松の木が倒れてんだと。松の木が倒れてんから、松の木だと思って、自分の木のそばへ、座ったんだって。
そしたらその、それが、松の木じゃなく蛇だったんだと。姫宮のね、その蛇だったと。その松の木、がらがらがらっと、座ったら動き出したと。
ほんでびっくりして、その人はもう、それでもって、びっくりあのウッテン(仰天)しちゃったのかねえ。倒れちゃって。ね。あまりのあの、激しさってゆうかびっくりしたですねえ。ほんでもってうちぃ帰って来てもう寝込んじゃったらしんだねえ。
ほんでもってどうしようもねえで、ほんで「あつく(あそこ)へまつろう」ってゆって、姫宮さま祀ったわけだ。
(略)あれはねえ、今お寺でやってます、あの経王寺(きょうおうじ)ってゆうお寺がねえ。
話者・山崎正三郎(国分 明治44年生まれ)
『市川の伝承民話 第八集』2004 市川民話の会
3 じゅん菜池の姫宮さま(3)
小さい、お宮さんがあるんですよ。これがねえ、やっぱりその土地の人に聞いたらね、里見の姫さまが、池端へ、あの落ちてって、身を投げて、亡くなって、白ヘビになったって、デンセツがあるんですよね。
話者・小倉慶蔵(国府台 大正10年生まれ)
『市川の伝承民話 第八集』2004 市川民話の会
4 姫宮さん
本尊様を見たら青い石でしたよ。今はどうしたかね。
国府台合戦で里見城(出城)が陥落したことを知った里見のお姫様が、許婚の武将の安否を尋ねて安房から来たけど、消息がつかめず、落胆して、じゅん菜池へ身を投げて亡くなったんで、村人は哀れんで手厚く葬ったということだ。
話者・井上千與次(明治34年生まれ)
松岡博子『市川市国分周辺の変遷ー聞き書き 資料編ー』1998 自刊
こうした伝承から、姫宮を祀る背景には、水と関わる蛇に対する信仰があり、水神はしばしば女神とされることから、やがて里見の姫と習合して伝承されるようになったと考えられる。
3.じゅん菜池の蛇
それは、里見の姫とは結び付かない蛇の伝承から伺い知ることができそうである。
1 じゅん菜池の祠
農家の人が、田んぼのうあれがかれたときに、水をもらうための、あれようがいの池だって聞いてましたあたしたちは。それで、そのうあのう池をね、池の無事を結局、祈願するために、東あがり口の、今の中国分(へ)行く上がり口の、あの辺に祀ってありますよね。
話者・田中正光(国府台 明治45年生まれ)
『市川の伝承民話 第八集』2004 市川民話の会
2 小池の大蛇
こっちにこう、「小池(こいけ)」ってのがあって、池がつながっててねえ。そっからもいろいろデンセツが出たんだよ。
(略)小池のデンセツはねえ、そこにも、んだ(だから)大蛇(だいじゃ)がいたってゆう、あれなんだ。あそこに神社が一時(いちじ)できただけんど、今なくなっちゃったね、うん。
(略)あたしらもう、小さい時分にあすく、「あっ小池かあ、ここはこっからきもい、気味(きび)わりいだ」って、そこへ行かんなかったかわかんない。〉
話者・山崎正三郎(国分 明治44年生まれ)
『市川の伝承民話 第八集』2004 市川民話の会
3 じゅん菜池 (1)ー大蛇の話
やっぱり、じゅん菜池の主がいるとか、なんとかいってね、なかなかおっかなくて、中に入れなかったですよ。雨の日なんかはね。
松の木倒れたのかなんか、朽ちはてたのなんかの状態で。
昔の人がよく言うけど、あそこには大きな主がいて、雨上り行って、「疲れた」っていって腰かけたら、それが蛇だったとか・・・・・・。
話者・石原竹雄(国分)
『市川の伝承民話』1992 市川市教育委員会
4 じゅん菜池 (2)ー水天宮の話
式場病院の方に、水天宮って祀ってあんです。それ祀ってあんのは、昔の者が魚釣りに行ったら、雨の降る日に、小さい蛇が来て、足を、つまり、水の方へ出しちゃって、その足を、蛇が来て、パクパク吸うんですって。それで、「チクショウ」って、釣棹の元で押したらね、蛇(じゃ)になって、ゴウーって音して消えたって、そんな話はよくしてましたよ。それで、水天宮って祀ってありますよ。
話者・高橋忠次郎(北国分)
『市川の伝承民話』1992 市川市教育委員会
5 じゅん菜池 (3)ー龍の話
じゅん菜池の主は蛇だよね。蛇は、大雨なんか降ったりしててもって、水が出る時には、龍が式場病院の方から、むこうの国分の方へ立って歩くってんだよね。昔から、そう言う話があった。
話者・高橋忠次郎(北国分)
『市川の伝承民話』1992 市川市教育委員会
6 じゅん菜池の池尻
昔は池の中央から北は昼間でも、
「池尻の方は行くのはよすべぇや」
と、子供たちは気味悪がって行きませんでした。
(略)池尻には大蛇が住みついていると噂されていました。見たという確実な話ではありませんけど。
話者・田中正光(国府台 明治45年生まれ)
松岡博子『市川市国分周辺の変遷ー聞き書き 資料編ー』1998 自刊
このように、じゅん菜池には主の蛇が棲んでいると信じられていた。蛇はすなわち、水を司る神霊と見なすことができる。蛇に対する畏怖の思いとともに、じゅん菜池は守り継がれてきたのである。
4.国分の「鏡石」
じゅん菜池の水に関わる霊性をたどる手がかりとして、国分にあった「鏡石」を見ていく。
じゅん菜池の水は平川となって谷津を流れていくが、国分寺の台地と須和田遺跡の台地とを結ぶ古代の道と交差するところに「石橋」が架かり、そのそばに「鏡石」と呼ばれる石があった。
現在は、京成真間駅の改札へ上がる階段の脇に移され、実物ではなく模造が据えられている。
左 鏡石(京成真間駅)
左下 『成田参詣記』中路定俊 1858(1973 有峰書店)
右下 『江戸名所図会』斎藤長秋ほか編 1834
(1967 人物往来社)
1 『江戸名所図会』
鏡石 弘法寺より国分寺へ行く方の田畔(たのくろ)石橋の際(きは)の水中にあり 此石根(このせきこん)地中に入(いる)事 其際(そのかぎり)をしらず 故に一に要石(かなめいし)とも号(なづ)くといへり 土人此石橋は 国府台にある所の石棺の蓋なる由云ひ伝ふ 按ずるに 国分寺古伽藍の石材なるべし
2 真間駅の鏡石
いま真間駅に、なんか記念の石がおいてあるでしょう。
あれは二中から国分寺の方へ行く田んぼの中にあったんですよね。鏡石とかなんとかいったかな。それを動かすとき、うちのおやじがいたときでね、石を動かすと血の雨が降るといって、大騒ぎして誰も動かさなかったですよ。
ところが動かさないと雨が降ると困るんでね、それでお経をあげてあそこへ、真間駅へ持っていったんですよね。
話者・小平智雄(真間)
『市川の伝承民話』1992 市川市教育委員会
5.「姫宮」と「鏡石」
郷土史家の綿貫喜郎氏は、このような「鏡石」が、じゅん菜池の水が谷津の開口部に流れ出るところにある位置関係などから、次のような説を提示している。
すでに古い時代(弥生時代=引用者注)から「じゅん菜池」(国分沼)は、米作りのための灌漑用の溜め池として、人工的に(今のバス通りに=引用者注)堰を設けて造られたもので、これから水路を引いて不入斗一帯の湿地(スワ)が、スワダ(須和田)と呼ばれる水田に作り上げられていたことが分かります。(略)
この「鏡石」と前の「姫宮」とは、水田が造られた頃からの深い関係があったものと思うのです。(略)
平川の上、じゅん菜池のほとりに「姫宮」を、そして下の「鏡石」は。男根を象徴した「男宮」であり。古い昔にはここでも飛鳥地方に見られるような(五穀豊穣、子孫繁栄を願う=引用者注)行事が行われていたものと思うのです。(略)
「江戸名所図会」の鏡石は要石であり、男根を祀ったもの、そして大切なものであるから動かしてはならぬという事だったのです。(略)
(中世から戦国時代の=引用者注)長い間の戦乱と、人々の生活の苦しみから、姫宮の果たした役割はすっかり忘れさられ、近世に入って国府台合戦の悲話の一つとして語られるようになったものと思われます。
綿貫喜郎『じゅん菜池今とむかし』(1992 自刊)
綿貫氏の説は、考古学的な遺構なども踏まえたものであり、じゅん菜池が弥生時代の水田作りに役割を果たしていた可能性は、充分に考えられる。
「姫宮」と「鏡石」を男女一対の信仰対象と捉えることも魅力的ではある。
ただ、両者とも弥生時代まで遡って存在していたと言えるかは難しい。
ここでは、「姫宮」に水を司る霊性を観じていたであろう点を見い出せればいいかと考える。
里見の姫の悲話は、そこに付加されたものと見ておきたい。
6.市川在住の民俗学者・本山桂川
付論として、昭和初期、市川に住んだ民俗学者・本山桂川(もとやまけいせん)(1888〜1974)が、「鏡石」について触れているので紹介する。本山は、柳田國男とともに「日本民俗学」の揺籃期に活躍した先駆者である。
1924(大正13)年9月 市川町砂河原(京成真間駅西側)に転居
同時期 私立市川学館(商業学校)教頭就任(1925年3月辞職)
民俗研究を行いながら印刷出版を手がける
1929(昭和4)年 市川町町議会議員となる(二年半在席)
1937(昭和12)年 東京新宿へ転居
雑誌『民俗研究』を主宰し、1928年(昭和3)から1933年(昭和8)までに50冊刊行している。
本山桂川『信仰民俗誌』(1934 昭和書房)は、人類学者・鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』(1927 磯部甲陽堂)所収の「武蔵野のメンヒル」で論じられた、現・葛飾区立石に祀られている「立石」などは西洋でいうところの「メンヒル」=古代の立石(りっせき)信仰の遺物ではないか、という当時としては新しい学説に準拠して、「鏡石」について述べている。
本山桂川「石の崇拝と民俗」
而して鳥居博士は此の立石を以てメンヒルの一種と断定されてゐる。其要領を抄出すれば左の如くである(上代の東京市ママと其周囲)。
A 此立石は地質学的に見て所謂根から生えてゐるものではなく、其形状や高さ太さ等の上から他より持って来て立てたものと思はれる。
B 此立石は昔は尚高かったから「立石」の名を得たもので、今はそれが僅かに地上に露出するに過ぎなくなってゐる。此立石其の物、其信仰、其地名等は、明かに人類学上の所謂Pilar Cultの種類であって、人類学上のメンヒル(menhir)である。
C 立石信仰は極めて原始的な信仰であって、然かも其石材は他より運んで来たものである。斯くして彼等が古くからこれを宗教上のシンボルとして深く信仰し、之が尚現今までも続いて来たものである。
以上は其断案の大意である。思ふに此立石の如きも、決して最初から性的な信仰の対象物では
なかった 元来石其のものの霊力を崇拝する石神信仰に基くものである。
(略)再び鳥居博士に従へば、下総国府台附近の鏡石、下総佐倉安養寺境内のアマンジャコ石の如きもメンヒルであり、筑波山男体・女体の各頂上にも数個あり、九州各地、四国、中国等に於ても発見され、且つ立石の地名とメンヒルの関係は日本各地で之を見ることが出来るといふことである。
更に原始信仰の対象物としてのメンヒルを中心に考ふるならば、古来人口に膾炙せる常陸鹿島神宮の要石も亦同様の信仰表現の一遺物であると考へてよいであろう。
本山桂川『信仰民俗誌』(1934 昭和書房)
鳥居が打ち出したメンヒルは、縄文時代の環状列石、弥生時代の立石墓、愛媛県、岐阜県などに確認されるが、葛飾区の立石は古墳造営のために鋸山から運ばれたものと解明されている。
国分の鏡石も、石橋の架かる道が須和田の台地と国分寺を結ぶことから考えると、国分寺造営以降のものとも推察される。
しかし、ここで見ておきたいことは、鳥居も本山も、「性的な信仰の対象物ではなく、元来石そのものの霊力を崇拝する石神信仰」を強調している点である。
国分の鏡石の伝承をたどるとき、この観点は重要だと考える。
姫宮にしても鏡石にしても、まだまだ未解明なことが多い。
〈市川学〉としてアプローチする余地は多分に残されている。
本山桂川については、以下が参考になる。
🔊三村宜敬「本山桂川の足跡を探る」『平成27年度市立市川歴史博物館館報』2017
https://researchmap.jp/_nomura-29/published_papers/11891008
🔊110 中国分・じゅん菜池の「姫宮」とヘビ 文芸からみる市川の自然 2024年 根岸英之





