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~市川・浅草 荷風散歩~珍釈 渡り鳥いつ帰る


🔊「~市川・浅草 荷風散歩~珍釈 渡り鳥いつ帰る」

  市川市邦楽連盟&劇団市川座&市川市 共催公演  市川市芸術祭文化祭参加作品

2025年3月に「市川・浅草 荷風散歩~珍釈 渡り鳥いつ帰る」が上演されます。
戦後の市川に暮らした文豪・永井荷風さんの老後生活と、浅草行脚を経て浅草軽演劇「渡り鳥いつ帰る」を上演することになる顛末を描いたオリジナル作品です。

 

公演日時:2025(令和7)年3月8日(土)11時(Aプロ)・15時(Bプロ)

               3月9日(日)11時(Bプロ)・15時(Aプロ)

会場:市川市文化会館小ホール 

 

▪原作:永井荷風

▪脚色・演出・美術:吉原廣(劇作・演出家・市民文化プロデューサー)

▪音楽・演奏:杵屋栄日陽 設楽瞬山 今藤政優 他

▪照明:清水昌弘

▪音響:宮崎裕之  

▪キャスト:市川市を中心とした千葉県民 30余名

 

▪入場料:前売り2,000円 当日2,500円 障がい者・付添1,000円

 

≪あらすじ≫

昭和21年1月、荷風は市川に移り住む。

幾度もの空襲に遭遇して憔悴しきった、哀れで孤独な67歳の老後生活だった。

そして数年後、葛飾の自然に癒され、再び活力を取り戻した荷風は、浅草行脚を復活させる。そこで出会った浅草芸人や街娼婦たちと親しむ中で、浅草軽演劇「渡り鳥いつ帰る」を上演することになる・・・。

 

制作   市川市邦楽連盟∔劇団市川座+市川市  

協力   NPO法人いちかわ市民文化ネットワーク(いちぶんネット)

 

「脚色・上演の意図」(抜粋) 台本・構成 吉原廣

〈(略)今回は、「市川・浅草・荷風」のつながりをテーマに、浅草で上演された荷風の舞台劇を再現しようと考えた。
(略)その一つの作品を私が面白いと思える形に脚色・潤色して、皆様にお目にかけようと意図した。

そうでもしないと、”市川の荷風”が思い出される機会もなくなり、過去の遺物になってしまうことを恐れるからである。
これも、私なりの荷風さんに対する愛と尊敬の形であるとご理解いただきたい。〉

 

🔊チケット申し込みフォーム

 https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeb1q4kq9rynVDR13MBT5Zktm9N-VWp1PW1fVcVZbkqZcZpaw/viewform

 

🔊劇団市川座(Facebookページ)

 https://www.facebook.com/ichikawaza 



1 永井荷風原作映画「渡り鳥いつ帰る」と「「にぎり飯」~文学から映画へ 」
永井荷風の市川時代の作品「にぎり飯」「春情鳩の街」「渡鳥いつかへる」をもとに映画化されました。
原作の「にぎり飯」は市川が主要な舞台となっており、映画でも行徳辺りが描かれています。
1955年(昭和30)6月、白黒128分、東京映画(東宝) 
 原作:永井荷風、監督:久松静児
 脚本:八住利雄、構成:久保田万太郎
 撮影:高橋通夫・玉井正夫、音楽:團伊玖磨
 出演:
 (おしげ)田中絹代、(吉田伝吉)森繁久彌、(街子)高峰秀子
 (民江)久慈あさみ、(栄子)淡路恵子、(鈴代)岡田茉莉子
 (千代子)水戸光子、(佐藤由造)織田政雄、ほか
市川市文学プラザ(現・市川市文学ミュージアムの前身)では、2009年5月2日、「文豪 永井荷風生誕130年・没後50年記念事業」として、「永井荷風原作映画上映会「渡り鳥いつ帰る」」が開催されました。
その時の解題として、「「にぎり飯」~文学から映画へ 」(根岸英之)が書かれました。

🔊永井荷風原作映画上映会「渡り鳥いつ帰る」https://warp.da.ndl.go.jp/collections/content/info:ndljp/pid/1364389/www.city.ichikawa.lg.jp/cul06/1111000025.html

🔊「にぎり飯」~文学から映画へ 」(解題 根岸英之)
https://warp.da.ndl.go.jp/collections/content/info:ndljp/pid/11710741/www.city.ichikawa.lg.jp/common/000069753.pdf

 (閲覧できない場合は、国会図書館WARPで「市川市文学プラザ 渡り鳥いつ帰る」で検索するとご覧いただけます https://warp.da.ndl.go.jp/

 

🔊2024年12月13日Facebook投稿  
https://www.facebook.com/akiyuky/posts/pfbid02eFbFm6EpGhNmN7X2DNpnQVcqkWzq9k51XtufiebCQRoZDPSK52EVkFvtG3hVtcENl


2 市民オリジナル演劇上演「荷風幻像〜老愁は葉の如く〜」
2009年5月は荷風生誕130年・没後50年に当たり、2009年6月13日・14日には市川座の前身である市民劇団により「荷風幻像ー老愁は葉の如くー」が上演されました。
先だって2009年4月には、「役者とめぐる荷風ゆかりのスポットツアー」が行われました。「マイタウンいちかわ」には、若かりしメンバーの姿が映されています。

🔊文豪 永井荷風 生誕130年・没後50年にちなんで
https://warp.da.ndl.go.jp/collections/content/info:ndljp/pid/3518967/www.city.ichikawa.lg.jp/cul06/1111000024.html

(閲覧できない場合は、国会図書館WARPで「市川市文学プラザ 荷風生誕130年・没後50年」で検索するとご覧いただけます https://warp.da.ndl.go.jp/
🔊役者とめぐる荷風ゆかりのスポットツアー

https://youtu.be/DdPFPD4AWuI?si=7-rF9Y6_CdOpL1VK&t=170

 

🔊2024年12月18日 Facebook投稿  
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3 「荷風の書斎移築復元展示」と「渡り鳥いつ帰る・異聞」稽古始まる!
2021年1月、全面開庁となった市川市役所本庁舎1階に復元された「荷風の書斎移築復元展示」についての紹介ページと、演出家・𠮷原廣さんの「ヨッシー・ノート」より「「渡り鳥いつ帰る・異聞」稽古始まる!」を取り上げました。

🔊「永井荷風の書斎移築復元 市川市役所新庁舎に」(いちかわ発見伝サイト)

https://ichikawahakkenden.jimdofree.com/20210307/

🔊「渡り鳥いつ帰る・異聞」稽古始まる!「ヨッシー・ノート」

http://yosshy.sblo.jp/article/191176025.html

 

🔊2024年12月25日 Facebook投稿  
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4 ドナルド・キーンさんが感銘を受けた荷風さんの日本語の美しさ
市川市役所に移築再現された書斎展示でも紹介されている、ドナルド・キーンさんが市川市八幡の荷風さんを訪れたとき感銘を受けた、荷風さんの日本語の美しさについて。
キーンさんは、1957年か1958年に市川市八幡の荷風さんを訪ね、汚い風貌とは対照的に、荷風さんの日本語が美しかったと、繰り返し書き記しています。
〈ひょんなことから荷風と会った。人嫌いで会うことすら難しい作家だったが、五七年か五八年に所用で都内の出版社を訪ねた時だった。編集者から「荷風に会いに行くが、来ないか」と誘われた。喜んで同行した。
 家は細い路地の先にある木造平屋建て。年配の家政婦に迎えられた。日本では「きたないところですが」と謙遜して言うことが多いが、本当に言葉通りだったのは初めてだった。床にはほこりがたまり、座るともうもうと舞った。荷風もまた風采の上がらない老人で、ズボンの前のボタンは全開。口元から見える前歯は欠けていた。
 ところが、話し出すとよどみのない清流のような日本語。初めて聞きほれた話し言葉だった。恥ずかしくも私は前夜の酒で二日酔いがひどく、会話の内容を全部は覚えていない。しかし、私の英訳「すみだ川」をほめてくれたことはうれしかった。荷風が五九年に七十九歳で亡くなるまで四十二年間書き続けた日記「断腸亭日乗」の五七年三月二十二日に「キーン氏訳余の旧作すみだ川をよむ」とある。〉
『ドナルド・キーンの東京下町日記』東京新聞出版 2014
「珍釈・渡り鳥いつ帰る」でも、荷風さんの晩年の老いぼれた姿が描かれるのですが、彼の話し言葉の美しさについても、伝えられたらいいのではと思います。

 

🔊2024年12月31日  Facebook投稿  
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5 荷風さんの肉声音源
ドナルド・キーンさんが「荷風さんの日本語は美しい」と驚嘆したエピソードを紹介しましたが、1952(昭和27)年12月26日にNHKで収録された、自作朗読「断腸亭日乗」昭和20年8月12日~13日の音源が、『荷風全集 別巻』(2011 岩波書店)の附録CDに収められています。
それほど上手い朗読とは言えないようですが、味のある肉声を聴くことができます。

 

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6 荷風さんの肉声と戦後のカフェーの女給
「断腸亭日乗」自作朗読と同じときに収録した対談が、1953(昭和28)年1月6日にNHKで放送されましたが、その音源が残されており、『荷風全集別巻』(2011 岩波書店)の附録CDに収められています。
対談「荷風よもやま話 青春を語る」(聞き手=嶋中鵬二)【画像参照】
全体で1時間近い内容ですが、ここでは、戦後のカフェーの女給について話している中で、市川や八幡の地名が出てくる部分を抜粋してみました。
この対談は、市川での荷風さん顕彰のなかでも、ほとんど採り上げられて来なかったものだと思います。戦後の荷風さんがカフェーの女給に関心を持っていたことが分かる面白い内容です。
「チップ」を「ティップ」と発音しているところ、女に興味がなくなったのは去年(1952・昭和27年)の夏辺りと話しているのも、興味深いです。
この対談は、1953(昭和28)年3月の『文藝』に活字化されており、同じく『荷風全集別巻』に再録されています。
〈それで夜帰るのに、大分ちゃんと、ぼくらの近辺ですね、市川からこつち総武線ね。ありやちやんと帰るもの。あゝやつて、毎日ぼくが帰るのにカフエーの帰りに、おんなじ子がやつばりいますもの。だからそう脱線してどつかへ行つちまわないつてことも、世間がいうほどカフエーの女は堕落しているという風には僕は考えていない。(略)ちやんとぼくは小岩で降りるのと、市川で降りるのと、それからぼくと一しよに八幡で降りるのとその顔はしよつちゆう知つてますもの。半年ぐらい続きますよ。いつでも。ニ、三年前から今だに帰る子もいますよ。〉
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荷風さんの別の座談会の様子は、YouTubeでも聞くことができます。
『婦人公論』五百号記念 1958(昭和33)年9月9日 中央公論社録音
座談会:永井荷風、谷崎潤一郎、嶋中鵬二、佐藤観次郎

 

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7 荷風さんにとって市川はどんな場所だったのか
戦後の荷風さんにとって市川がどんな場所だったのかを、随筆「葛飾土産」を通して見ていきたいと思います。
「葛飾土産」は1947(昭和22)年に書かれた随筆で、真間川沿いに展開する市川の光景が、散策の実感を通して描かれています。それを読むと、戦災に遭った荷風さんが、市川に東京下町の昔を思い出させる好風景が残っていることを知り、心の安らぎを見出していった様子が伺い知れます。
荷風さんにとって市川は、たまたま越して来た場所ではあるのですが、戦後の回復を取り戻していくに適った土地だったといえるでしょう。
「珍釈 渡り鳥いつ帰る」でも、「葛飾土産」は印象的に紹介されます。

 

🔊2025年2月6日  Facebook投稿  


8 永井荷風の食べ物と酒にまつわる逸話
先に投稿した「文芸からみる市川の自然 2025年2月 永井荷風の食べ物と酒にまつわる逸話」を再読してもらえればと思います。
小道具で出てくるカステラの画像をアップしてみました。

 

🔊2025年2月19日  Facebook投稿  

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9 荷風さんの世話をした小林修さんと福田とよさん
前回の「永井荷風の食べ物と酒にまつわる逸話」を読むと、市川で同居生活を送った杵屋五叟一家や小西茂也一家との軋轢も、窺い知ることができたと思います。
五叟さんや小西さんは、それぞれ来歴が知られ、自身が荷風さんについても文章をまとめていますので、以前からその関係は取りざたされていました。
ところが、荷風さんの世話をした小林修さんと福田とよさんについては、2000年以降、市川市で荷風さんの顕彰を重ねるようになって、ようやくその存在が明らかになってきた人物です。
ことに小林修さんの詳細が判って来たのは、ここ20年も経っておらず、吉原さんの脚本でそのキャラクターが具体化されたといっても過言ではありません。
2004年3月、市川市芸術文化団体協議会による舞台公演「荷風幻像」(吉原さんの脚本)において、小林修さんが好青年として描かれました。そのとき、根岸が小林修を演じました。
戦後市川時代の荷風さんにとって、小林修さんの存在は、重要な支えになっていたものと思われます。
今回の舞台でも重要な役回りとして登場します。
小林修さん、福田とよさんと荷風さんの関係については、2007年4月の『市川よみうり』に掲載した記事画像をお読みいただくといいと思います。
画像が鮮明ではないので、以下に文字起こしも上げておきます。
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『市川よみうり』2007年4月(1397)号
折り折りのくらし―いちかわ文芸歳時記49
荷風を世話した疑似家族-「荷風忌」に
市川民話の会会員 根岸英之 
 永井荷風の命日は、昭和三十四(一九五九)年四月三十日未明である。
 前日の昼、毎日のように通った京成八幡駅前の大黒家で、これまた定番のカツ丼と酒(菊正宗)一本を取ったのが、最後の外出となった。胃潰瘍による吐血で心臓発作を起こし、畳の上にうつ伏せで亡くなっていたのを、三十日の朝、通いの手伝い婦、福田とよさんにより発見されたのである。
 死の前日まで書き続けた日記「断腸亭日乗」の最後には、次のような記述が並ぶ。
 〈四月二日。晴。市川郵便局にて文化賞四十五万円受取。大黒屋昼食。(略) 
 四月十九日。日曜日。晴。小林来話。大黒屋昼飯。(略)
 四月廿七日。陰。また雨。小林来る。
 四月廿八日。晴。小林来る。
 四月廿九日。祭日。陰。〉
 荷風は「大黒家」を「大黒屋」と書いている。
 ここにしばしば登場する「小林」というのは、荷風が市川で二番目に暮らした菅野のフランス文学者小西茂也宅近くの家作に、福田とよさんと住んでいた小林修氏という人物である。
 福田とよさん(明治十七年頃生まれ)は、戦前から小西家をはじめ何軒かの屋敷で、お手伝いの仕事をしていたという。戦前に両国で知り合った小林庄一(大正三年生まれ)という人と、養子にする約束をしたらしく、いつからは不明ながら、二人で菅野の家作に住み始めた。
 小林庄一氏は、とよさんと菅野に移り住む前に、押上の床屋に間借りしていた。その床屋の息子が小林修氏(大正八年生まれ)で、本名は吉田だが、庄一氏を兄さんと慕い、戦後間もなく、菅野の庄一氏のところに身を寄せ、小林を名乗るようになったという。
 荷風が小西家との同居がうまく行かなくなったとき、菅野に一人住まいの家を世話したのが、この三人だった。「断腸亭日乗」昭和二十三年十二月の条に、このように記されている。
 〈十二月十三日。快晴。温暖春の如し。午下小林氏と共に八幡の登記所に至り売主代理人と会見し家屋の登記をなす。小林氏といふは和洋衣類の販売をなすもの。余とは深き交(まじわり)あるに非らず、今春余は唯(ただ)二三着洋服を買ひしことあるのみ。然るに余が年末に至り突然家主より追立てられ途法(とほう)に暮れ居るを見て気の毒に思ひ其老母と共に周旋(しゅうせん)すること頗(すこぶる)親切なり。今の世にも親切かくの如き人あるは意想外といふべし。小林氏の老母は猶(なお)心あたりをさがして女中になるべきものを求めて後引越の世話をすべしと言ふ。万事を頼み家に帰り疲労を休めて後燈刻浅草に行きて夕餉(ゆうげ)を喫(きっ)す。〉
 小林氏と並びの家作に住んでいた山中正一さん(昭和十一年生まれ)によれば、名前が「ショウイチ」同士ということで付き合いを持った庄一氏は、温厚寡黙などちらかというと真面目すぎる教師のような感じで、話し方も穏やかで不動産関係の仕事をしていたという。それに対して修氏は、社交の活発な踊りの師匠さんで、歌舞伎の女形のような、今でいえば丸山(美輪)明宏のような人だったという。
 山中さんは、「断腸亭日乗」にただ「小林」とあるのは、一般には修氏のこと一人を指すように思われているが、実際は修氏も庄一氏も、荷風の元へ通っていたのではないかと想像されている。
 戦後の混乱期とはいえ、既存の「家族」制度に縛られない、ドメスティックパートナーの実践者たちが、荷風と親身な付き合いをしていた事実は、荷風文学や生き方を読み解く上で、案外重要なことのようにも思われる。
 四月三十日は、南千住の浄閑寺で、毎年「荷風忌」の法要と講演が行なわれるが、五月六日には、市川でも「荷風忌」にちなんで、市川市民映像制作グループが三月に完成させたビデオ「荷風のいた街」と、二〇〇四年に市川市芸術文化団体協議会によって上演された「荷風幻像」舞台公演ビデオの上映会が、映像文化センターで予定されている。
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🔊2025年2月27  Facebook投稿  

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10 舞台「渡り鳥いつ帰る」
今回の舞台の第二幕に劇中劇として上演される舞台「渡り鳥いつ帰る」について。
この作品は、荷風さんが執筆して1950(昭和25)年5月に浅草ロック座で上演されました。荷風さんが飛び入りで特別出演したことでも知られています。
当時のことを知る毎日新聞記者の小門勝二『浅草の荷風散人』(東都書房 1957)から、その様子をご紹介します。二人の人物が対話をする形で書かれています。荷風の戯曲の表記は「渡鳥いつかへる」となっています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「『渡鳥いつかへる』は、はじめは小説にするつもりだったんだが、脚本にしてしまったんだよ。ロック座では直ぐそれに飛びついてきたね」(略)
「あれは昭和二十五年五月二十四日の午後のことだった。荷風はぶらりと浅草にやってきたよ。ロック座では『渡鳥いつかへる』をやっていたんだ。楽屋へ、すーっとはいってくると、『きょうは、ぼくが役者になって舞台に出てあげますよ』といい出して関係者を驚かせたんだ」
     〇
舞台は鳩の街に程近い裏街。上手から出て来た洋服姿の老紳士が、中央のおでんやの前に立って、
「おじさん、忙しい?」
と、声をおあける。おやじが、ふと見上げて、
「おや、これは産婦人科の永井先生じゃござんせんか。まあお休みになってお一つ・・・・」
と、ちょこを差出せば、老紳士は、
「や、有難う。一ぱいいただくか」
と、横のベンチで、きゅうと乾す。そのとき、横から出てきた赤い洋服の若い女の子をつかまえて、
「あんた、なかなか可愛いね」
と目を細くし、
「そこまで一緒に帰ろう」
     〇
「まあ、この間、わずかに五分だったが、荷風の演ずる紳士の一挙一動に客席と舞台奥の両方から拍手の雨が降り、けいこはしなくても、生れながらの芸術家は、即席でもしゃれた味を出して人気を呼んだぜ・・・・」
「荷風はなかなかやるね。スターのいなくなった劇団が可哀想にに見えたのかね。まずそんなところなんだろうな。浅草の楽屋を本当に愛しているんだね」
小門勝二『浅草の荷風散人』(東都書房 1957)
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🔊2025年3月6  Facebook投稿  

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11 戯曲「渡鳥いつかへる」と小説「二人艶歌師」(草稿)
2017年秋、荷風さんの「創作ノート」が存在が明らかになり、そこに戯曲「渡鳥いつかへる」の草稿と、同じ題材を小説の形で著した「二人艶歌師」の草稿が書かれていたのです。荷風さんの死後かなり経っての発見は、文学研究上特筆すべきことです。
翌年、荷風研究者の多田蔵人さんが『新潮』2018年11月号に、「新発見草稿 永井荷風『二人艶歌師』『渡鳥いつかへる』」とする翻刻と、「解説 永井荷風のノート――『二人艶歌師と『渡鳥いつかへる』の推敲」を掲載され、戯曲「渡鳥いつかへる」として発表される作品の執筆過程が明らかとなり、市川時代の荷風作品研究に新たな光が当てられました。
今回「渡り鳥いつ帰る」が舞台作品として演じられたのは、荷風研究の上からも、大きな意義のある公演だったと言えるでしょう。
以下、戯曲「渡鳥いつかへる」誕生までに、荷風さんがどのような文学的格闘をしていたのか、多田さんの解説を要約する形で見ていきたいと思います。
この論考は、市川市文学ミュージアムの荷風忌講演「言葉を選びつづける――市川時代の荷風文学」(2018・平成三〇年五月三日)の内容を大幅に増補したものであり、市川が産みの場になっていることもうれしく感じます。
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「創作ノート」の旧蔵者であった毎日新聞記者の小門勝二氏は、荷風の小説にもとづく戯曲『裸体』が上演されている時期、艶歌師を題材にした小説を書いてほしいと懇望した。荷風は一度承諾して小説を書きかけるが、「小説にならないから浅草の芝居でやるような芝居の台本に」したと告げ、「二人艶歌師」という未完の小説を認めたノートを見せたという。
ノートに記された「二人艶歌師」の筋は、二人組の音楽師が何度か京成電車で一緒になった鈴子をテストし仲間に入れる。「渡鳥いつかへる」に描かれるヤクザのくだりはなく、仕事が成功をおさめた夜、二人の男は一夜のうちのそれぞれ女と肉体関係を持ち、三人の同棲生活がはじまるところで中絶。「渡鳥いつかへる」の第二場後半から第三場冒頭と似た進行であるが、戯曲には肉体関係のくだりはない。
ノートには、「二人艶歌師」と「渡鳥いつかへる」が、小説「吾妻橋」の草稿をはさむ形で書き直しが行われている。
艶歌師二人の名前「大木」「小林」が「福井」「松田」に修訂され、「鈴子」の名前が「鈴代」に変更されている。
これまで「小説が戯曲に改められた」と言われていたが、構想レベルでの先後関係は決しがたい。起筆時期は、「裸体」上演中の昭和二十五年二月二八日から三月一三日より、やや早い時期に遡る。
また、ノートに記された構想は、戯曲上演後に公開された久保田万太郎構成の戯曲「葛飾土産」(昭和二八年七月「中央公論」7)と万太郎構成・八住利雄脚色の映画「渡り鳥いつ帰る」(昭和三〇年、東宝、久松静児監督)の双方に見える。いずれも「にぎり飯」「春情鳩の街」「渡鳥いつかへる」の筋をつき交ぜて成立しており、荷風の腹案が万太郎に示唆を与えたと考えられる。
「二人艶歌師」は荷風晩年の沈黙期への導いた小説といえる。作家の老いの問題というだけでなく、作家の表現そのものの展開によってもたらされていた可能性を示している。
晩年の荷風小説の断片性や非完結性は、老いによる衰えというよりも意図的に選び取られたものである。「二人艶歌師」の執拗な推敲行為は、精緻な描写と単純素朴なプロットの拮抗を組織してゆく修辞法であり、戦前の作品以上の技倆を見ることさえできる。
「二人艶歌師」は三人の男女が思いのほか手軽く情交を結んでゆく物語であり、鈴子の性を無邪気なものと捉えることと、強靭な性の〈跳梁〉とみることとの間で揺れうごき、モチーフを十全に展開することができない構成になっている。
「二人艶歌師」の問題は戯曲の作法によって「渡鳥いつかへる」へと回収されていったと読むことができる。ただし、戯曲における筋の純化は、言葉の拮抗関係が失われ、過去と現在との複層性から過去へのまなざしを代償とした。
言葉が意味を結ぶ直前で物語をとどめ、かえって意味を多産にしてゆく小説。描写の構図をあえて崩し、物語を断片にしてゆくこと。晩年の荷風小説が掘りあてた水脈の長さは、戦後における言葉の推移を捉えなおすことを促している。
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今回、こうした荷風研究のうえでも注目される「渡り鳥いつ帰る」を、劇団市川座で潤色の形で上演したことは、実は荷風研究のうえでも大きな足跡になるのだろうと考えます。
一つには、荷風さんの構想腹案にあったごとく、「渡鳥いつかへる」の単独作品化とは別に、今作では「春情鳩の街」の栄子や種子、小説「吾妻橋」の鈴代などが登場し、潤色が図られた点、もう一つには、そこに戦災で「憔悴」した荷風さんの市川時代の暮らしと、憔悴から立ち直り浅草通いと創作を「復活」させていった、荷風さんの「老い」を絡めて描いている点、においてです。
惜しくも本番一週間前の三月二日未明に癌で逝去した松島庄吉郎さんがプロデュースし、吉原廣さんが潤色・演出した今回の公演は、必ずや大きな意味を持ってくると思うものです。
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なお、多田さんの「二人艶歌師」に対する読みから、私は「二人艶歌師」の構想の背後に、小林修さんと小林庄一さん、福田とよさんによる三人同棲生活をプレテクストとして〈引用〉できるのではないか、と観じたのですが、それはまたの機会に触れられたらと思います。
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🔊2025年3月11  Facebook投稿  

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🔊『東京新聞』2025年2月27日(木)千葉版 記事が掲載されました
「荷風の晩年、市川が癒やす? 「潤色」加えたオリジナル劇 芝居好き市民32人が来月8、9日に公演」

🔊公演パンフレット