現在、国府台3丁目にある里見公園は、1953(昭和33)年に開設されました。
「里見」の呼称は言うまでもなく、室町時代に、国府台一帯にかけて、安房の里見一族と小田原の北条氏が対決する、二度に渡る大きな国府台合戦の場所になったことによるものです。
🔊https://www.city.ichikawa.lg.jp/gre04/1111000001.html
実は明治時代、檀家のない総寧寺は困窮し、境内の一部を公園にしていたことが分かっています。
木ノ内博道さんの「市川里見公園新聞 第68号」(2010)には、次のように述べられています。
〈明治に入って、総寧寺は大幅に縮小された。総寧寺の土地の一部が里見公園として提供される。それがいつのことかは不明だが、「里見公園」という名称の確認ができるのは大正2年。湯島の小学生が里見公園に来て事故にあった(三体地蔵・国分寺)。現在の公園の半分は陸軍病院が終戦まであった。〉
🔊http://kinouchi.web.fc2.com/satomi02/news68.html
しかし、いつごろから公園があったのか、詳しい経緯については、まだ未解明な部分もあります。
そこで、ここでは明治時代から大正時代の里見公園について、明らかになったことを解説したいと思います。
公園の開設年代
公園が明治時代のいつできたのかについては、随筆家・大町桂月が、1908(明治41)年に刊行した『筆』に所収されている「国府台」という紀行文に、次のように記されています。
〈四年前に開かれて、公園となりたる也〉
この記載から、1904(明治37)年ころ、公園になったことが推定されます。公園の開設を考えるうえで、桂月の文章は、大変貴重な記述であることが分かります。
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/889243/1/33(国会図書館デジタルコレクション)
とくに注目される資料として、1905(明治38)年5月に発行された雑誌『むさしの』5巻2号(古今文学会)掲載の記事「国府台修学旅行記」東京高等女学校 愛子著において、
〈明治三十七年十一月二日は兼て定められたる修学旅行の日なり〉で始まり、
〈国府台公園につきしは午前十時なりき、〉P76
と記載されていることが確認できました。
このことから、明治37年11月には公園が開設されており、「国府台公園」と呼称されていたことが判明しました。
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/1524890/1/45
(書誌データのみ閲覧可、画像不可)(国会図書館デジタルコレクション)
公園の名称「国府台公園」「鴻之台公園」
公園の名称については、二つの呼称がされていたことが確認できました。
一つは「国府台公園」「鴻之台公園」。
大町桂月『関東の山水』博文館 1909(明治42)年5月発行の「総論」「一一 公園」の項には、
〈下総には、国府台公園〉P15
と記載されていました。
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/763768/1/24(国会図書館デジタルコレクション)
1909(明治42)年6月に発行された雑誌『運動世界』42年6月号掲載の記事
「痛快ッ、高師の長距離競走 三里を只の四十六分で 五月五日市川本所間」葵南著 にも、
〈市川町鴻之台公園〉p122
〈鴻之台公園〉p124
と掲載されていました。
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/1499566/1/72(国会図書館デジタルコレクション)
(書誌データのみ閲覧可、画像不可)
また、大正時代(年代不明)に発行された「市川名所絵葉書」には、「鴻之台公園」という名称が記載されています。
🔊https://www.pocketbooks-japan.com/index.php/products/detail/147481
公園の名称「里見公園」
公園の名称のもう一つは「里見公園」。
1914(大正3年)刊行の
落合浪雄 著『郊外探勝その日帰り 増訂』有文堂書店には、
〈国府台 今はそこら一面を切り開いて里見公園と云ふて居る、〉p3
の記載がありました。
増訂前の版は、明治44年に刊行されていますが、こちらには、公園自体の記述がありませんでした。
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/936569/1/18(国会図書館デジタルコレクション)
同じく1914(大正3)年刊行の
新井孤川著『名勝案内記: 上武鉄道沿線、東上鉄道沿線、野田線並ニ流山、京成電車沿線、関東各地霊場旧跡』中央出版社には、
〈総寧寺と里見公園〉P20~21
〈鴻之台里見公園〉広告欄
の記載が見つかりました。
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/948126/1/18(国会図書館デジタルコレクション)
このことから、大正3年には「里見公園」という名称も使われていたことが判明しました。
1913(大正2)年の湯島小学校遠足当時の史料には、今のところ、公園の名称が記されたものは確認できていません。
正式名称「国府台公園」(一名「里見公園」)
近代以降の国府台の歴史については、市立市川歴史博物館の小野英夫学芸員が詳しく、
『市川市史 歴史編Ⅳ 変貌する市川市域』市川市 2020
にも、公園の歴史が考察されています。
🔊https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1331000005.html
小野学芸員に問い合わせしたところ、
【大正12年に刊行された『千葉縣東葛飾郡誌』の記述によれば、公園の項に(1255頁)、
〈國府臺公園 一名里見公園、市川町、総寧寺境内其江戸川に臨み風光絶佳の處是を國府臺公園となす〜(後略)〉
とあり、
正式名称は国府台公園で、通称として里見公園という名称が用いられていたことが考えられます。】
との回答をいただきました。
🔊 https://dl.ndl.go.jp/pid/9640160(国会図書館デジタルコレクション)
(書誌データのみ閲覧可、画像不可)
国府台病院の変遷
なお、現在の芝生広場からバラ園にかけては、1899(明治32)年に陸軍衛戍病院が開設されました。1936(昭和11)年に国府台陸軍病院と改称、1938(昭和13)年3月、西練兵場に新病院が落成して、もとの場所は里見分室となりました。1945(昭和20)年12月1日、厚生省所管となり、国立国府台病院と改称。1958(昭和33)年、里見分室が取り払われて里見公園となりました。
🔊https://www.ncgmkohnodai.go.jp/outline/030/hospk003.html
🔊http://kinouchi.web.fc2.com/satomi02/news65.html
精神科医で随筆家の斎藤茂太(1916-2006)は、1944(昭和19)年から国府台陸軍病院に軍医として勤務し、その様子を「国府台の人びと」『国府台陸軍病院の想い出』1982(昭和57)年に記しています。
〈私は入隊間もなく里見分院に配属になったが、その建物は明治期そのものの古典的なものであった。(中略)これは明治初年に日本陸軍がまだフランス流であった頃、フランスの設計になるものである。〉
🔊https://dl.ndl.go.jp/pid/12133096/1/23(国会図書館デジタルコレクション)
(書誌データのみ閲覧可、画像不可)
このように、現在の里見公園として親しまれているこの地は、総寧寺、陸軍病院、公園などが、時代とともに変遷を重ねながら、今日に至っています。
2024年9月8日、 いちかわ市民ミュージカル第11回公演「まちわらし?!~里見の森のsasayaki~」が、市川市文化会館で上演されます。里見公園を始めとする国府台から真間一帯にかけてが舞台となります。市民ミュージカルの鑑賞に合わせて、国府台や里見公園の歴史をひも解いていくのも、いいかもしれません。







